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大嫌いなはずだったのに [第1話/全4話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 5月29日
  • 読了時間: 5分



【第1話】 提案を、一刀両断された


上海に来て2日目になる。

EVインフラの整備計画をめぐり、中国側パートナーとの交渉が続いていた。

政府系の補助金スキームと、民間資本の組み合わせ方を詰める作業だ。

日本の商社として何を持ち込めるか、相手に何を期待するか。

その落とし所を探る3日間で、2社目がNIOだった。


会議室に入ったとき、リンはいなかった。

5分待った。10分待った。

スタッフが「少々お待ちください」と言うだけで、それ以上の説明がなかった。

俺は黙って待った。

窓の外に上海の高層ビルが並んでいた。

この国の商談は、待たされる方が弱い。

それを知っている側が、いつも遅れてくる。


15分後、彼女が入ってきた。

謝らなかった。「凌(リン)です」とだけ言って、名刺を出した。

名刺を一瞥して、すぐ机に置いた。そのまま資料を開いた。

日本側が持参した提案書を読み始め、2分ほどして「この数字の根拠は何ですか」と聞いた。

日本語だった。正確な、一切の揺れがない日本語だった。


こちらが説明している途中で、「それはNIOには合わない」と言った。

「理由を聞いてもいいですか」と俺は言った。

「中国のEV市場の速度に、このスキームは対応できない。判断の話ではなく、構造の問題です。」

3文で終わった。


その後の1時間、商談のペースは完全に彼女の手にあった。

こちらが何を言っても、先に論点を整理されて、向こうのフレームで話が進む。

優秀な人間は知っている。

先に地図を描いた方が、相手をそこに乗せられる。

俺は乗せられていた。分かっていても、乗せられていた。


ホテルに戻る車の中で、「ああいうタイプは嫌いだ」と思った。

仕事ができる人間を嫌いなわけじゃない。

相手に考える余地を与えない進め方が、俺の肌には合わなかった。

こちらの話を聞く前に、結論を出す。それが彼女のやり方だった。


ホテルの部屋に戻って、シャワーを浴びた。

熱い湯が背中を流れる間、午後の商談を頭の中で繰り返していた。

こちらが話している途中で結論を出す。

それだけで嫌いになれる。

そう思いながら、彼女の言ったことの半分は正確だったとも感じていた。

提案書のスキームは、確かに中国市場の速度にはついていけない。

数字の話としては、彼女は間違っていなかった。

それが余計に腹立たしかった。

正しいことを言う人間には、反論しにくい。


夜、業界懇親会があった。

リンがいた。スーツを脱いで、黒のシンプルなドレス姿になっていた。

切れ長の目、骨格のはっきりしたシャープな輪郭。168センチはある。

脚が長く、立ち方に隙がない。スーツのときより、少しだけ柔らかく見えた。「少し」だけだ。


会場のどこにいても目立った。

話しかけてくる人間を、彼女は短く要領よくあしらっていた。

笑顔は作っていた。でも目が笑っていなかった。

午後の商談のときと、同じ目だった。


飲み物を取りに行ったとき、彼女が来た。

「食事しませんか」とリンは言った。

「仕事の続きですか」と俺は言った。

「いいえ。」間を置かずに言った。「食事です。」

渋々ついていく気分だった。ただ、断る理由もなかった。


会場を出て、リンがタクシーを止めた。

行き先を中国語で告げた。

静安区まで20分ほどかかった。

俺は一言も言わなかった。

リンも何も言わなかった。

夜の上海が窓の外を流れていった。

午後から嫌っていた女と、タクシーの後部座席に並んでいた。


Fu 1088は静安区の延安中路にある。

1920年代に建てられた石庫門——上海の伝統的な石造りの洋館——をそのまま使ったレストランだ。

外から見ると古い住宅の面構えのまま、入ると白いテーブルクロスと暗い木材の内装が広がる。

観光客が来る場所ではない。

地元の企業家が接待に使う。

それを知っている人間だけが予約を入れる店だ。


紅焼肉を頼んだ。360元。

豚の角煮を上海風に仕上げたもので、箸を入れると崩れる。

醤油と紹興酒の甘みが脂に溶け込んで、後味に八角がかすかに残る。

東京で食べる中華とは、根拠が違う。

この街の台所から来た味だ。


上海で食事をするなら、ここのような場所を選びたい。

技術ではなく、時間と土地が作る味というものがある。


リンは最初の30分、仕事の話を続けた。

午後の商談の補足を、正確に説明した。感情が入らない。

説明が終わると、「伝わりましたか」と聞いた。

「だいたい」と俺は言った。

「だいたいでは困ります」と彼女は言った。


俺は黙った。

しばらく沈黙があった。

リンがグラスに手を伸ばした。

赤ワインを一口飲んだ。

グラスを置いて、少しだけ表情が変わった。

肩の力が、ほんの少し落ちた。


「三好さんは、上海は初めてですか」

「3回目。」

「好きですか。」

「嫌いじゃない。」

「なぜ。」

「騒がしいのに、整理されている。」


リンがグラスを少し傾けた。

「上海は騒がしいと思われているけど、住んでいると静かな場所がたくさんあります」と言った。

「三好さんが知っているのは表側だけだと思う。」

「今夜みたいな場所もあるんですね。」リンは何も言わなかった。

ただ、目が少し動いた。


リンが少し笑った。

商談の席では見せなかった顔だった。

目の端に、わずかに力が抜けた。


「もう少し飲みませんか」と彼女は言った。

食事が終わりかけた頃だった。

「知っているバーがあります。」


俺は答えなかった。

リンがすでに伝票に手を伸ばしていた。

払うつもりでいた。

それを止める気も、起きなかった。

午後まで嫌いだった女に、今夜は奢られようとしていた。

その事実が何を意味するのか、確認したくなかった。



【次話予告】

隠れ家バーの暗がりで、リンは仕事のときとは違う声で笑った。 「大嫌い」と決めていた女が、気づいたら一番話しやすい女になっていた。




Fu 1088(福1088)

住所: 1137 Yan'an Middle Road, Changning, Shanghai

おすすめ: 紅焼肉(360元)、清炒河虾仁、腌笃鲜

特徴: 1920年代の石庫門(上海伝統の石造り洋館)を改装した上海料理の名店。

地元財界人が接待に使う、観光客には知られていない格調ある一軒。

醤油と紹興酒で仕上げる紅焼肉は、この街の台所から来た正直な旨さがある。



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