大嫌いなはずだったのに [第2話]
- GENPASS 編集 三好

- 5月30日
- 読了時間: 5分

【第2話】 隠れ家で、別の顔を見た
Speak Lowは復興中路の路地にある。
復興中路は夜でも人通りがあった。
プラタナスの並木が上から覆いかぶさって、その間から街灯が落ちている。
リンは迷わなかった。
この街の地図が、彼女の中に入っていた。
表向きは本の並んだポップアップショップだ。
入り口には「Bar」の表示がない。
知らなければ通り過ぎる。
扉を開けて中に入ると、カウンターと棚いっぱいのボトルがある。
日本人バーテンダーの後神慎悟が手がけた店で、ミシュランに名前が載っている。
上海に来る度に立ち寄る人間と、一生知らない人間がいる。
それだけの差がある店だ。
カウンターに並んだ。
「ここ、よく来るんですか」と俺は聞いた。
「月に2、3回。」
「一人で?」
「大体は一人です。」彼女はそう言って、カクテルメニューを見た。
「仕事のあと、静かにしたい夜があって。」
頼んだカクテルは、ジャスミンティーとライムを使ったシグネチャーだった。180元。
一口飲むと、花の香りが先に来て、後からライムの酸みが伸びてくる。甘さが残らない。
上海の夜に、これほど合う一杯を俺は知らない。
バーテンダーがグラスを磨いていた。
客は俺たちの他に2組いた。
カウンターの向こうに、整然と並んだボトルの列がある。
どの店かを選べる人間が、どの店かを選んでいる。
そういう場所だった。
リンが笑い始めたのは、2杯目に差し掛かった頃だった。
俺が上海に来て感じた違和感を話した。
タクシーの運転手が全員スマートフォンで決済の確認をしていて、現金を持っていなかった話。
リンが「三好さんはそれで困ったんですか」と言った。
「財布を出したら笑われた」と俺は言った。
リンが声を出して笑った。
声が変わった。仕事のときの声ではなかった。
もっと低く、柔らかい笑い声だった。
「中国は現金が死にましたから。」
「日本はまだ生きてる。」
「そこが遅い。」また笑った。「でも、三好さんらしい気がする。」
「どういう意味ですか。」
「何かを急がない人に見えます。」
俺は答えなかった。
それが褒め言葉なのか、今日の商談への皮肉なのか、判断がつかなかった。
リンはグラスを持ったまま、前を向いていた。
商談の席にいた女とは別人だった。
同じ人間がこれほど違う顔を持っているとは、昼間は思わなかった。
俺は少し、自分の判断を疑った。
嫌いだと決めた相手を、まだ嫌いかどうかが曖昧になっていた。
「さっき、なぜ食事に誘ったんですか」と俺は聞いた。
「三好さんが面白そうだったから。」
「午後の商談でそう思いましたか。」
「提案書の書き方が、他の日本の会社と違った。」
しばらく間を置いた。
「ビジネスとして使えないと思ったけど、書いた人間が誰か気になった。」
俺は何も言わなかった。グラスを口に運んだ。
翌日、リンからメッセージが来た。
「夜、時間がありますか。外灘に連れていきたい店があります。」
Mr & Mrs Bundはバンド18の6階にある。
ポール・ペレのモダンヨーロピアン。
1920年代に建てられたネオクラシック建築の上層階で、窓の向こうに黄浦江と浦東の夜景が広がる。
料理はフランス的な技法で中国の食材を扱う。
鴨のコンフィ、コース仕立てで1200元。
表面がパリッと焼けていて、中はしっとりと水気が残っている。
脂が口の中で静かに溶ける。
上海に来てフランス料理を食べる意味は、ここにある。
この街でしか作れない文脈が、皿の上にある。ソムリエが勧めたブルゴーニュの白は、料理の油脂をすっと流した。
1本5800元。出張経費の申請には出せない額だが、払う価値があった。
リンは昨日より、もっと話した。
日本に5年いたこと。
東京の大学院で経営学を学んだこと。
帰国してNIOに入ったのは、中国のEVが世界を変えると思ったからだと言った。
「信じていますか」と俺は聞いた。
「もちろん」と言って、笑わなかった。
本気の目だった。
商談でこちらを圧してきた目と、同じ目だった。
「日本は好きですか」と俺は聞いた。
「好きです。でも中国の方が好きです」とリンは言った。
「なぜ。」
「速いから。変わるのが速い。時代が遅い場所には、もう戻れない。」
それを誇りとして言っているのか、孤独として言っているのか、判断がつかなかった。
その目が好きだ、と思った。
思ってから、少し驚いた。
食事が終わって、外灘の遊歩道を歩いた。
夜の黄浦江に、浦東の高層ビルが映っている。
上海の夜景は、人間が作ったものだという事実を隠さない。
全部が意図的で、全部が計算されている。
それでも圧倒される。
意図的に作られたものが人を圧倒するとき、そこには本物の力がある。
リンが俺の横で黙って夜景を見ていた。
今夜初めて、彼女が何も喋らない時間があった。
The Peninsula Shanghai の前まで来たとき、リンが足を止めた。
「少しだけ、いいですか。」
「何が。」
「ここのバーで、もう一杯。」
俺はThe Peninsulaを見た。
1929年建設の新古典主義の白いファサードが、夜の外灘に立っていた。
「俺が泊まっているホテルです」と俺は言った。
「知ってます」とリンは言った。笑わなかった。
ただ、先に歩き出した。
俺のホテルへの道を、彼女は最初から知っていた。
【次話予告】
「知ってます」とリンは言った。
それがどういう意味かを、俺は考えないことにした。
考えたら、答えが出てしまうから。
第3話「ペニンシュラの、夜が長かった」 に続く。

Speak Low(スピーク・ロウ)
住所: 579 Fuxing Middle Road, Huangpu, Shanghai
おすすめ: シグネチャーカクテル(180元〜)
特徴: 表向きは本が並んだショップ、奥に隠れ家バーがある3フロア構成のスピークイージー。
日本人バーテンダーの後神慎悟が手がけ、ミシュランガイド上海に掲載。
上海に来る度に足を運ぶ人間と、一生知らない人間がいる。それだけの店だ。



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