大嫌いなはずだったのに [最終話]
- GENPASS 編集 三好

- 7 日前
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【最終話】 大嫌いなはずだったのに
帰国してから、3週間後に次の上海出張が入った。
NIOとの交渉は継続中で、修正した提案書を持っての再訪だった。
他にも2社、別の案件でアポが入っていた。
出張の理由は十分にあった。
スケジュールを確認したとき、リンに連絡するかどうかを考えた。
10秒考えて、連絡した。返事はすぐ来た。
「知ってました。また来ると思っていました」とリンは書いた。
俺は「なぜ」と返した。
「三好さんは、やり残したことを放置しない人だから」と来た。
仕事の話なのか、それ以外の話なのか、聞かなかった。
上海に向かう飛行機の中で、その言葉を反芻した。
やり残したこと。仕事ならそうかもしれない。
ただ、今回の出張の準備を始めたとき、最初に頭に浮かんだのは次の商談ではなかった。
2回目の上海は、最初とは違う空気だった。
商談でリンと向かい合っても、同じ人間だとは思えなかった。
交渉のテーブルでは鋭く、容赦がない。
俺の提案を数字で切る。
そのやり方は変わらなかった。
ただ、会議が終わった後の顔を、俺は知っていた。
その顔を知っていることが、商談の場で微妙に邪魔をした。
それが分かるのは悔しかった。
仕事とプライベートを完全に切り離せる人間になりたかったが、リンに関してはうまくいかなかった。
会議室の彼女を見るたびに、あの夜の彼女を思い出した。
その二つの顔が、重なってしまっていた。
夜は二人で飲んだ。
前回と同じバーに行くこともあった。
前回と違う場所に行くこともあった。
リンが案内することが多かった。
俺は連れていかれた。
自分から案内することが多い俺が、珍しく連れていかれる側にいた。
新天地のバー、旧仏租界の古い建物を使ったワインバー、豫園の近くの路地裏にある小さな店。
リンが選ぶ場所には共通点があった。
観光客がいない。
地元の人間だけが知っている。
彼女はそういう場所を知っていた。
上海を表側からしか知らない人間には、案内できない場所だった。
「どこかへ、また来ていいですか」とリンが聞いた夜があった。
東京のことを言っていた。
「来ればいい。」
「来てもいいと言っているんですか。来てほしいと言っているんですか。」
「どちらでもいい。」
「答えになっていない。」
そうだな、と思った。
でも、どちらとも言えなかった。
「大嫌いなはずだった女」がここまで近くなった理由を、俺はまだうまく整理できていなかった。
整理する気が、少しずつなくなっていた。
3回目の上海も、4回目の上海も、リンは来た。
LINEは毎日ではなかったが、続いた。
上海に来るたびに会った。
東京でも、一度だけ会った。
彼女は六本木のバーを予約していた。
席に着いたとき、「東京のリンさんは上海と同じですか」と俺は聞いた。
「どっちも同じです」と彼女は言った。
「ただ、東京は少し緊張します。」
「なぜ。」
「三好さんのホームだから。」
俺は何も言わなかった。
六本木の夜が、その言葉を包んでいた。
帰り際、タクシーを拾う前に少しだけ立ち話をした。
「次の上海、いつ来ますか」とリンが聞いた。
「決まっていない」と俺は言った。
リンが「分かった」とだけ言って、タクシーに乗った。
その後ろ姿を見ながら、東京でリンを見るのは不思議な気分だと思った。
この街では彼女が客だった。
それがある日、止まった。
特に何かがあったわけではない。
前のLINEから10日ほど経って、こちらから「次の上海は来月になりそうです」と送った。
返事が来なかった。
3日待った。来なかった。
翌週、もう一度送った。
既読がついた。返事は来なかった。
その後、来なかった。
上海のビジネスの世界では、連絡が途絶えることを説明しない。
東京のビジネスでは、理由を伝えることがマナーだが、ここでは違う。
ただ消える。
それを責める側の方が、何かを分かっていない。
理由は分からない。
分からないまま、時間が経った。
仕事は続いた。上海の出張もあった。
NIOとの商談も続いた。
ただ、会議室にリンの姿はなかった。
担当者が変わっていた。
それが異動なのか、意図的な配置換えなのか、確かめる術がなかった。
リンには連絡しなかった。
連絡する気が出なかった、というより、連絡する資格があるかどうかが分からなかった。
上海のビジネスの世界で何かがあったのかもしれない。
転職、異動、あるいは別の誰かと何かがあったのかもしれない。
分からないまま時間が経つと、その理由はどうでもよくなってくる。
残るのは、ただ「消えた」という事実だけだ。
消えることに慣れていた。
消えるのは、いつも俺の方だった。
こちらから連絡しなくなった夜のことを、女たちは覚えているかもしれない。
俺は覚えていない夜もある。
リンが消えた夜は、覚えている。
初めて消される側になった。
それが新鮮だったとか、悔しかったとか、そういう分かりやすい感情ではなかった。
ただ、これが自分のやり方だったと初めて理解した。
連絡が来なくなった夜の感覚を、相手はずっとこう感じていたのか、とだけ思った。
上海の出張から帰るたびに、会議室のあの椅子を思い出した。
15分待った。謝らなかった。
「それはNIOには合わない」と言った。
あのとき確かに「嫌いだ」と思った。
大嫌いなはずだったのに。
気づいたら、今も上海の空港でリンのことを考えていた。
帰りの便に乗るとき、窓の外に上海の夜景が広がった。
あの街のどこかで、リンは今日も誰かと商談をしているのだろう。
15分遅れてきて、謝らないで、最初の一文で相手の提案を切る。
それが彼女のやり方だった。
俺には、それを止める理由がなかった。最初から。
<完>

The Peninsula Shanghai(ザ・ペニンシュラ上海)
住所: 32 Zhongshan East 1st Road, Huangpu, Shanghai
特徴: 1929年建設、外灘に位置する新古典主義建築の名門ホテル。
上海で最も歴史あるラグジュアリーホテルのひとつで、大理石の柱と高い天井が植民地時代の面影を保つ。
浦東の夜景を望むロビーバーは、上海を知る者だけが落ち着ける場所だ。



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