大嫌いなはずだったのに [第3話]
- GENPASS 編集 三好

- 5月31日
- 読了時間: 6分

【第3話】 ペニンシュラの、夜が長かった
The Peninsulaのバーは静かだった。
1929年建設のホテルは、上海でも数少ない「歴史を持つ建物」だ。
植民地時代の名残がある外灘に建ち、高い天井と大理石の柱が当時のままだ。
バーのカウンターに座って飲んでいると、今が何年かが分からなくなる。
俺はウイスキーを頼んだ。リンはジンを頼んだ。
バーテンダーは何も聞かなかった。
グラスを二つ出して、氷を入れた。
この店では客が喋る必要がない。
席に座ること自体が、言葉の代わりになる。
そういうバーだった。
しばらく、何も話さなかった。
沈黙が重くなかった。
重くない沈黙が成立するには、条件がある。
お互いが相手のそばにいることに慣れていること。
48時間前に初めて会った相手とこの空気になるのは、珍しいことだ。
ただ、商談からここまでを振り返ると、時間の密度が普通ではなかった。
Fu 1088の2時間。Speak Lowの深夜。
Mr & Mrs Bundの夜景。
そのどこかで、距離が縮まっていた。気づかないうちに、縮まっていた。
「今日の商談は、どうでしたか」とリンが聞いた。
「良くはなかった。」
「正直ですね。」
「あなたに嘘をついても意味がない。」
「なぜ。」
「全部分かる顔をしているから。」
リンがグラスを置いた。
俺を見た。
「三好さんは変な人です」と言った。
「よく言われます」と俺は言った。
「最初、嫌いだと思いました。」とリンが言った。
「俺もです。」
「知ってました。」
彼女が初めて、悪い顔で笑った。
計算してこちらを見下ろすときの顔ではなく、本当に可笑しいと思ったときの顔だった。
目の端に皺が寄った。切れ長の目が、少しだけ細くなった。
「上がりますか」とリンは言った。
俺は彼女を見た。
彼女はグラスを持ったままだった。
こちらを見ていた。
待っていた。
「行きましょう」と俺は言った。
エレベーターに乗った。
鏡張りの壁に、俺とリンが映っていた。
12時間前、同じ会議室で向かい合っていた二人だ。
あのときの俺に話しても、信じないだろうと思った。
廊下を歩いた。カードキーを出した。
扉の前で一度だけリンを見た。
彼女は真っ直ぐ俺を見ていた。
計算でも服従でもない目だった。
何かをすでに決めた、という目だった。
嫌いだった女を、こんなに早く部屋に入れるつもりはなかった。
ただ、それが何時間前の話なのかが、もう分からなかった。
リンの体は、想像より柔らかかった。
168センチ、細い。
スーツのときも、ドレスのときも、スキのない体つきに見えた。
ところが、肩に触れた瞬間、その印象が変わった。
骨の細さと、その上を覆う肌の柔らかさが同時に伝わってきた。
鎖骨が深く刻まれていた。
脱ぐと、腰の細さと、脚の長さが浮かび上がった。
首から鎖骨にかけての線が、部屋の明かりに浮かんでいた。
外灘の夜景が窓から差し込んで、その輪郭を薄く照らした。
最初、リンは強かった。
商談の席と同じ目をしていた。
こちらを観察している目だった。
受け身でいることを、最初から拒んでいた。
整える時間を与えなかった。
それでも、乱れなかった。
商談で見せた気の強さが、ここでも生きていた。
主導権を渡さないつもりでいた。
俺はそれを崩す気がなかった。
彼女がそうしたいなら、そうさせた。
ただ、時間が経つにつれて、目が変わっていった。
切れ長の目が、少しずつ力を失った。
商談で相手を圧していた目が、とろんと緩んでいった。
自分でもそれに気づいているのかもしれない。
一度、唇を噛んで、堪えようとした。
でも、堪えきれなかった。
低く、短い声が出た。
彼女の脚が俺に絡んできた。
細い脚だった。だが力があった。
ゆっくり引き寄せてくるような力で、俺の腰を絡め取った。
手が俺の背中に回った。爪が軽く食い込んだ。
さっきまでの強気の残滓が、その力の入り方に出ていた。
強気だった女が、自分でも気づかないうちに縋り付いている。
そのギャップが、すべてを引き受けていた。
深夜を過ぎた頃、一度だけリンが目を開けた。俺を見た。
何かを確認するような目だった。
言葉はなかった。俺も何も言わなかった。
その代わり、もう少しゆっくりにした。
リンが目を閉じた。唇から短い息が漏れた。
夜が深くなるにつれて、リンはもっと正直になった。
声が大きくなった。
抑えようとする動きが消えた。
頬が上気していた。
仕事の場では一切見せない、本当の顔だった。
化粧が少し落ちて、素の顔に近くなっていた。
その顔が、シャープな印象より、ずっと若く見えた。
午前2時を回っていた。
上海の夜景が窓の外で光り続けていた。
カーテンを閉める気になれなかった。
あの街の光が、この部屋の中まで届いている感じがした。
気づいたら、窓の外が白んでいた。
翌朝、先に起きたのはリンだった。
すでに身支度が整っていた。
俺が目を開けると、「おはようございます」と言った。
仕事のときの声に戻っていた。
でも、少しだけ柔らかかった。
「コーヒー、頼みましょうか」と言った。
「頼んでください」と俺は言った。
コーヒーが来て、二人で飲んだ。
窓の外に上海の朝が広がっていた。
リンは窓を見ながら、何か考えていた。
「三好さんは、また上海に来ますか。」
「仕事次第。」
「来るとき、教えてください。」
リンがカップを置いて立ち上がった。
コートを手に取った。
ドアのところで一度振り返った。
何も言わなかった。ドアが閉まった。
また上海に来るかどうか、そのときは分からなかった。
でも来ると思った。
自分でも、理由が説明できなかった。
机の上に、リンのカップが残っていた。
口紅が縁についていた。
それを片づける気になれないまま、俺はシャワーを浴びた。
商談の2日目が、2時間後に始まる。
ただ、次の上海を仕事の理由だと言い切れるかどうかが、この朝だけ、分からなかった。
【次話予告】
上海に戻るたびに、リンは待っていた。
それがいつまでも続くものだと、どこかで思っていた。
最終話「大嫌いなはずだったのに」 に続く。

Mr & Mrs Bund(ミスター・アンド・ミセス・バンド)
住所: 18 Zhongshan East 1st Road, 6F, Huangpu, Shanghai
おすすめ: 鴨のコンフィ(コース内)、シグネチャーデザート
特徴: 外灘18号の6階、フランス人シェフ、ポール・ペレによるモダンヨーロピアン。
窓の外に黄浦江と浦東夜景が広がる。
フランスの技法で上海の食材を扱うその料理は、この都市でしか生まれない文脈を持つ。
上海で一番「来た意味がある」と思える食事ができる店のひとつだ。



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