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雨の前に、もう一杯だけ [第1話/全4話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 2 日前
  • 読了時間: 5分



【第1話】エグゼクティブラウンジの、隣の席


ジャカルタに来て5日目になる。

EVバッテリーの調達スキームをめぐる交渉が続いていた。

日系自動車メーカーがアジアでの現地生産比率を引き上げるにあたって、インドネシアのサプライヤーとの連携は外せない。

俺の仕事は、どのメーカーと、どの条件で組むか、その橋渡しを作ることだった。

期限は今週中だった。


4日目の午後、交渉が止まった。

相手はKarimun Batteryの調達部長、ハルトノ・サントソ。

50代のインドネシア人で、通訳を介した3時間の会議の末、「検討します」とだけ言った。

アジアで仕事をしてきた人間なら分かる。その言葉の意味は、NOだ。


翌朝、俺は議題を変えた。

契約の話をやめた。代わりに、インドネシアのEV市場が5年後にどうなるかを話した。

政府補助金の方向性、二輪から四輪への需要移行、中国系メーカーの攻勢と日系の対抗策。

最後に「貴社が5年後にどの位置にいたいか」と聞いた。

ハルトノが、通訳を介さずに少し長く答えた。本音が混じっていた。


午後3時、フレームワーク合意の骨格ができた。

帰りの車の中で、現地担当の高橋が「昨日まで全く動かなかったのに、どうしたんですか」と言った。

俺は何も答えなかった。

人を動かそうとするから動かなくなる。

相手が自分で動ける場所を作れば、人間は動く。

長くアジアで仕事をしていると、そういうことが分かってくる。


夕方6時、The St. Regis Jakartaのエグゼクティブラウンジに戻った。

SCBDに建つこのホテルは、インドネシアの財界人と外資の重役が出張で使う場所だ。

ラウンジには、その日の会議を終えた人間たちが静かに散らばっていた。

グラスを頼んで、ノートパソコンを開いた。窓の外に夕暮れのジャカルタが広がっていた。

スモッグの向こうに高層ビルのシルエットが重なっている。

バリとは全く別の顔の都市だ。

ビーチもリゾートも歓迎の笑顔もない。

ただ、巨大な都市が金を動かしている。


2席隣に、女が座った。

ラウンジには10人ほどがいた。

スーツの男が多く、全員が何かを見ていた。

スマートフォンか、ノートパソコンか、窓の外か。

誰も声を出していなかった。

疲れた人間が集まる場所の静けさだった。


クリーム色のブラウス。

黒い髪を首の後ろでまとめていた。

テーブルにタブレットを出して、何かを読んでいた。

目が少し大きく、骨格のはっきりした顔立ちだった。

163センチはある。細い。

インドネシア人だと思ったが、何かが少し違って見えた。

タブレットの画面が、日本語だった。


しばらくして、彼女がこちらを見た。

「すみません。」日本語だった。

「充電器をお持ちですか。タブレットの電池が切れそうで。」

正確な、アクセントの少ない日本語だった。

東京で数年以上暮らした人間の日本語だ。

充電器を出した。

受け取りながら、「こちらには出張でよく来られるんですか」と彼女は聞いた。


「出張のたびに。あなたも?」

「ここに泊まっています。」

話が続いた。

名前はナディア・クスマ。

アストラ・インターナショナルのビジネス開発担当だと言った。

アストラはトヨタとの合弁で自動車事業を持つ、インドネシア最大のコングロマリットだ。

日本語は早稲田大学に2年間留学していた時に身についたと言った。

「日本が好きになって、帰りたくなかった」と、少し笑いながら言った。

笑うと印象が変わった。整った顔が、急に温かくなった。


「サプライヤーとの仕事をしているんですか」と俺は聞いた。

「日系パートナーとの関係構築が主で。

今週も、Karimunの関係者と少し話していて。」


間を置いた。「今週、私もKarimun Batteryと交渉していました。」

ナディアが少し目を開いた。

「そうなんですか。」「仕事で。」

しばらく経ってから「繋がっているんですね、業界って」と彼女は言った。


2杯目のワインを頼んだ頃、窓の外のジャカルタが暗くなっていた。

互いの仕事の話から、インドネシアとの付き合い方の話になっていた。

ナディアは「日本人はインドネシアに慎重すぎると思います」と言った。

「どういう意味ですか」と俺は聞いた。

「礼儀を守りすぎて、踏み込まない。

でも、ここの人間は踏み込んでくる人間が好きです。」

それは今日の交渉への皮肉ではなかった。正確な観察だった。


「明日の夜、Lara Djonggrangに行きましょう」と俺は言った。

誘いではなかった。計画の提示だった。

ナディアがこちらを見た。何かを測るような目だった。


「予約、しているんですか」と彼女は聞いた。

「今します。」スマートフォンを取り出した。

英語で電話をかけた。3分で取れた。

「7時で、どうですか。」


ナディアは俺を見てから、タブレットをゆっくり閉じた。

立ち上がりながら、振り返らずに言った。

「7時に。」


エレベーターへ向かう背中を、俺はグラスを持ったまま見ていた。

承諾でも拒絶でもなかった。

ただ、先に動いた。それが答えだった。

宣言型が正しく機能するとき、相手は「yes」を言わない。先に行動する。



[第2話] 植民地の邸宅で、素顔を見た に続く。



【次話予告】

翌夜、植民地時代の邸宅に灯るランタンの中で、ナディアは仕事以外の話を初めてした。 「帰りたくなかった」という言葉の意味が、食事が終わる頃には少し変わっていた。 第2話「植民地の邸宅で、素顔を見た」



Lara Djonggrang(ララ・ジョングラン)

住所: Jl. Cikini Raya No.4, Menteng, Jakarta Pusat

おすすめ: ラウォン(185,000ルピア〜)、アヤム・ゴレン、ナシゴレン・スペシャル

特徴: オランダ植民地時代の邸宅を改装した、ジャカルタを代表するインドネシア料理の名店。

庭にはジャワ・ヒンドゥー様式の石像がランタンに照らされて並ぶ。

地元の財界人が特別な夜に選ぶ一軒で、観光客には届かない場所にある。



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