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雨の前に、もう一杯だけ [第3話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 12 時間前
  • 読了時間: 6分



【第3話】 雨は、まだ降っていた


The St. Regisのバーに入ったのは、23時を過ぎた頃だった。

深夜のバーは、昼間のホテルとは別の顔をしていた。

大理石のカウンターに、アンバーの照明が落ちていた。

バックバーには厳選されたボトルが整然と並び、バーテンダーが一人だけいた。


シグネチャーカクテルを頼んだ。165,000ルピア。

インドネシア産クラフトジンを使ったベースに、カラマンシーとレモングラスを合わせたものだ。

一口飲むと、ジュニパーの香りが先に来て、後から東南アジア特有の柑橘の鋭さが追いかける。

この国の原料でしか作れない、この場所にしかない一杯だった。

雨の夜に、これほど合うものを俺は知らない。

このグレードのホテルのバーが深夜に静かである理由は、ここに来る人間がそれを望んでいるからだ。


「最後に一杯だけ」と俺は言った。

ナディアは黙って席に着いた。

ホテルに戻るまでの間、二人ともほとんど話さなかった。

雨の中のタクシーで、窓の外を見ていた。

沈黙が重くなかった。重くない沈黙が成立するには条件がある。

お互いが相手のそばにいることに慣れていること。

2日前に初めて会った相手とこの空気になるのは、珍しいことだ。


バーはほとんど人がいなかった。

バーテンダーが二人分のグラスを出した。

外の雨が窓ガラスを叩く音だけがあった。


ナディアがグラスを持ったまま少し考えてから、「三好さんは、毎回こうなんですか」と聞いた。

「どういう意味ですか。」

「ラウンジで隣に座った人間を、翌日には食事に連れていく。」

「毎回ではありません。」

「じゃあ、なぜ私に。」

「Karimunの話が出たとき。」グラスを置いた。

「同じ業界で同じホテルにいる人間がいると分かったら、どこかに連れていきたくなった。

理由としては弱いですが、それだけです。」


ナディアが俺を見た。笑わなかった。

何かを確認しているような目だった。

それからゆっくり、「正直な人ですね」と言った。

「そう見えますか。」

「そう聞こえます。」


最後の一杯が終わった。

俺は立ち上がらなかった。

ナディアも立ち上がらなかった。

バーテンダーが奥に引っ込んだ。

窓の外では雨がまだ降っていた。

雨音だけが静かにあった。


「もう一杯、どうですか」と俺は言った。

ナディアはグラスを見てから、俺を見た。

「部屋でもいいですか」と彼女は言った。



ナディアの体は、思ったより温かかった。

163センチ。細い。

黒のドレスの下で想像していた体の線は正確だったが、肌の温度だけは想像と違った。

小麦色の肌は滑らかで、首筋に細い金のネックレスが一本あった。

ドレスを脱ぐと、鎖骨の右下に小さな傷の跡があった。

「子供の頃、自転車で転んで」と彼女は言った。

そういう余分な一言が、人を人にする。


最初、ナディアは少し硬かった。

ラウンジで初めて会ったときの、整った顔が、最初の数分は残っていた。

こちらを観察している目だった。

慣れていない相手に対して最後まで自分を保とうとする、そういう種類の緊張だった。

でも、それは長く続かなかった。

早稲田で磨いた完璧な日本語が、少しずつ崩れた。

言葉が途切れた。そのかわりに、低く短い声が出た。

ラウンジにも、食事の席にも、Skyeのバーにも、この声はなかった。

56階から見たジャカルタの夜景の向こうに、この女がいた。

そのことが少し不思議だった。


腰が細かった。脚が長く、引き寄せるときに静かな力があった。

遠慮はなかった。でも焦りもなかった。

時間の密度を変える方法を、早稲田で学んだのかもしれない、と場違いなことを思った。

仕事の話が終わって、食事が終わって、雨に降られて、ここまで来た。

2日間の密度が、この部屋の中に全部溶け込んでいた。


しばらくして、ナディアがインドネシア語で何か言った。

意味は分からなかった。聞かなかった。そのままでよかった。

分からない言語で言われた言葉の方が、時々、正確に届く。


頬が上気していた。目が細くなっていた。

ラウンジで充電器を借りたときも、Lara Djonggrangで笑ったときも、Skyeで夜景を見ていたときも、この顔はなかった。

素の顔に近くなるにつれて、表情が若くなった。

27歳よりずっと若く見えた。

その顔を見ていると、帰りたくなかったと言っていた早稲田の2年目のことを少し想像した。

夜の東京で、ひとりで何かを覚えようとしていた年齢の顔だった。

気づいたら、窓の外が白み始めていた。


翌朝、先に起きたのはナディアだった。

シャワーを終えて出てきたとき、「おはようございます」と言った。

日本語で言った。昨夜より少し柔らかい声だった。

化粧を直していた。

「コーヒー、頼んでいいですか」

「頼んでください」と俺は言った。


コーヒーが来て、二人で飲んだ。

窓の外にジャカルタの朝が広がっていた。

渋滞がもう始まっていた。

スモッグの中に高層ビルが霞んでいた。

昨夜の雨が地面を濡らしていた。

56階から見たときとは別の街だった。

朝のジャカルタは、誰かが作ったものではなく、ただ動いている。

その正直さが、この都市の本当の顔だと思った。


「また来ますか、ジャカルタに」とナディアが聞いた。

「仕事次第。来ると思います。」

「来たとき、教えてください。」

ナディアが立ち上がって、ドレスに着替えた。

バッグを手に取って、ドアの前で一度振り返った。

「東京に行くことがあったら——」と言いかけて、少し間を置いた。

「行ってみたいと思っています。」

「連絡して。」

ナディアが頷いた。

「必ず来ます」と言った。

その「必ず」に何かが乗っていた。

義務ではない何かが。ドアが閉まった。


俺はコーヒーを最後まで飲んだ。

窓の外で、朝のジャカルタが動き始めていた。



【次話予告】

「必ず来ます」という言葉が、どれほどの重さを持っているか、そのときは分からなかった。

数ヶ月後、ナディアは本当に東京に来た。

第4話「雨の前に、もう一杯だけ」


[最終話] 雨の前に、もう一杯だけ に続く。



The St. Regis Bar(ザ・セントレジス・バー)

住所: The St. Regis Jakarta内(Jalan HR Rasuna Said Kav. 4, Setiabudi)

おすすめ: シグネチャーカクテル・インドネシア産クラフトジンベース(165,000ルピア〜)

特徴: The St. Regis Jakartaのバーは、深夜になるほど本来の顔を見せる。

大理石のカウンター、整然と並ぶボトル、一人だけのバーテンダー。

インドネシア産クラフトジンにカラマンシーとレモングラスを合わせたシグネチャーカクテルは、この国の素材でしか作れない一杯だ。

このホテルに泊まっていなければ、たどり着けない夜がある。



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