雨の前に、もう一杯だけ [第2話]
- GENPASS 編集 三好

- 1 日前
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【第2話】 植民地の邸宅で、素顔を見た
Lara Djonggrangはジャカルタのムンテン地区、チキニ通りにある。
1920年代に建てられたオランダ植民地時代の邸宅をそのまま使った、インドネシア料理の名店だ。
外から見ると古い住宅の面構えのままで、中に入ると庭にジャワ・ヒンドゥー様式の石像がランタンに照らされて並んでいる。
フランジパニの甘い香りが庭に漂っていた。
テーブルは庭の中に置かれていて、頭上に南国の夜空が広がっていた。
観光客が来る場所ではない。
ジャカルタで何かを知っている人間だけが予約を入れる店だ。
ナディアが来たとき、少し驚いた顔をした。
「本当に来たんですね」と彼女は言った。
「どういう意味ですか」と俺は言った。
「昨日の電話が本物かどうか、半分疑っていました。」
黒のドレスに着替えていた。仕事のときとは別人だった。
ラウォンを頼んだ。185,000ルピア。
インドネシア東ジャワの伝統的な黒いスープで、クルウェックというナッツが色と深みを作る。
見た目の黒さに比べて、味は深く、柔らかい。
牛肉の繊維がスープに溶け込んでいて、発酵の複雑さが後味に残る。
東京では再現できない味がある。
この国に来た者だけが知る一皿だ。
ナディアはアヤム・ゴレンを頼んだ。
「お世辞抜きに、うちの母が作るものより美味しいんです」と言って笑った。
笑うとまた印象が変わった。
ラウンジのときの整った顔が、さらに柔らかくなった。
コリアンダーと揚げた鶏の香りが庭の空気と混ざっていた。
「早稲田の2年間で、何が一番変わりましたか」と俺は聞いた。
「時間の使い方、だと思います。」彼女はスプーンを置いた。
「インドネシアは、時間をどう過ごすかより、誰と過ごすかが大切な文化なんです。でも東京で暮らすと、時間そのものの密度が変わる。それが好きになった。」
「帰りたくなかった理由は、それですか。」
「それと。」少し間を置いた。
「もう少し時間があれば、もっと分かることがある、という感覚がずっとあって。」
「まだ分かっていないと思いますか。」
「分かっていないことが、まだたくさんあります。」彼女がグラスを持った。
「でも、それが面白いんだと思うようになった。帰国してから。」
俺は何も言わなかった。ワインを一口飲んだ。
デザートが来た頃、夜の庭が深くなっていた。
石像の影が長く伸びていた。
ナディアが庭を見ていた。
仕事の話をしていないことに、二人とも気づかないふりをしていた。
彼女の日本語が少し柔らかくなっていた。
完璧な文法が、少しだけほどけていた。
「三好さんは、インドネシアで失敗したことはありますか」とナディアが聞いた。
「何度も。」
「どんな失敗ですか。」
「相手を急がせようとしたこと。」俺は少し間を置いた。
「急かした瞬間に、相手は全員逃げる。」
ナディアがしばらく俺を見た。
「今日の話と繋がっていますね。Karimunのこと。」
「仕事も、それ以外も、たぶん同じです。」
ナディアが何かを言おうとして、やめた。
代わりにワインを一口飲んだ。
それでよかった。
言わなかった言葉の方が、時々重い。
「もう少し飲みませんか」と俺は言った。
「空が見えるバーがあります。」
ナディアがこちらを見た。
「三好さんは、次の行き先を最初から決めているんですか。」
「だいたいは。」
「それが宣言型、というやつですか。」俺は少し笑った。
「バレましたか。」
「ジャカルタの人間も、同じことをします。ただ、もっと露骨に。」
「どちらがいいですか。」
ナディアが立ち上がりながら、「三好さんの方が品がある」と言った。
SkyeはムナラBCAタワーの56階にある。
ジャカルタのSCBD地区で最も高いバーのひとつで、360度のガラス張りから都市全体が見渡せる。
エレベーターを降りた瞬間、ナディアが少し立ち止まった。
それだけの夜景だった。
渋滞のジャカルタが、上から見ると別の都市になる。
信号の連なりが光の川になって、高層ビルが宝石のように並んでいた。
ナディアは窓の近くの席に座って、少しの間黙ってジャカルタの夜景を見ていた。
「こんなに広いんですね、この街は」と言った。
「住んでいて、知らなかった。」
「上から見ないと分からないことがある。」
「東京も、そうですか。」
「東京は、横から見た方がよく分かります。」
ナディアが笑った。
「三好さんは、変なことを言いますね。」
「よく言われます。」
カクテルを2杯飲んだ頃、雨が来た。
突然だった。熱帯の雨は予告なく降る。
窓に大粒の雨が打ちつけた。
ジャカルタの夜景が雨粒の向こうに霞んだ。
ナディアが窓を見た。
「帰れなくなりましたね」と言った。
「雨の前に、もう一杯だけ、と思っていたんですが。」俺はグラスを見た。
「間に合いませんでした。」
「そうですね。」ナディアも自分のグラスを見た。
雨は止まなかった。
バーテンダーがおかわりを勧めた。
俺は頷いた。ナディアも頷いた。
窓の外では、ジャ
カルタが雨に濡れていた。
雨脚が強まった頃、俺は言った。
「ホテルまで一緒に戻りましょう。」
事実を提示しただけだった。
ナディアは少し俺を見てから、バッグを手に取った。
【次話予告】
ホテルのバーで最後の一杯を頼んだとき、外の雨はまだ降っていた。
止まない雨が、二人にどれだけの時間を与えるかを、そのとき俺はまだ知らなかった。
第3話「雨は、まだ降っていた」
[第3話] 雨は、まだ降っていた に続く。

Skye(スカイ)
住所: Menara BCA, Jl. M.H. Thamrin No.1, 56F, Jakarta Pusat
おすすめ: シグネチャーカクテル(200,000ルピア〜)
特徴: ムナラBCAタワーの56階に位置する、ジャカルタのスカイラインを360度見渡せるバー。
突然の熱帯雨が窓を打つとき、雨粒に滲んだジャカルタの夜景が別の顔を見せる。
この街に来た者だけが知る、一杯の価値がある場所だ。



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