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雨の前に、もう一杯だけ [第2話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 1 日前
  • 読了時間: 5分



【第2話】 植民地の邸宅で、素顔を見た


Lara Djonggrangはジャカルタのムンテン地区、チキニ通りにある。

1920年代に建てられたオランダ植民地時代の邸宅をそのまま使った、インドネシア料理の名店だ。

外から見ると古い住宅の面構えのままで、中に入ると庭にジャワ・ヒンドゥー様式の石像がランタンに照らされて並んでいる。

フランジパニの甘い香りが庭に漂っていた。

テーブルは庭の中に置かれていて、頭上に南国の夜空が広がっていた。

観光客が来る場所ではない。

ジャカルタで何かを知っている人間だけが予約を入れる店だ。


ナディアが来たとき、少し驚いた顔をした。

「本当に来たんですね」と彼女は言った。

「どういう意味ですか」と俺は言った。

「昨日の電話が本物かどうか、半分疑っていました。」

黒のドレスに着替えていた。仕事のときとは別人だった。


ラウォンを頼んだ。185,000ルピア。

インドネシア東ジャワの伝統的な黒いスープで、クルウェックというナッツが色と深みを作る。

見た目の黒さに比べて、味は深く、柔らかい。

牛肉の繊維がスープに溶け込んでいて、発酵の複雑さが後味に残る。

東京では再現できない味がある。

この国に来た者だけが知る一皿だ。


ナディアはアヤム・ゴレンを頼んだ。

「お世辞抜きに、うちの母が作るものより美味しいんです」と言って笑った。

笑うとまた印象が変わった。

ラウンジのときの整った顔が、さらに柔らかくなった。

コリアンダーと揚げた鶏の香りが庭の空気と混ざっていた。


「早稲田の2年間で、何が一番変わりましたか」と俺は聞いた。

「時間の使い方、だと思います。」彼女はスプーンを置いた。

「インドネシアは、時間をどう過ごすかより、誰と過ごすかが大切な文化なんです。でも東京で暮らすと、時間そのものの密度が変わる。それが好きになった。」

「帰りたくなかった理由は、それですか。」

「それと。」少し間を置いた。

「もう少し時間があれば、もっと分かることがある、という感覚がずっとあって。」

「まだ分かっていないと思いますか。」

「分かっていないことが、まだたくさんあります。」彼女がグラスを持った。

「でも、それが面白いんだと思うようになった。帰国してから。」


俺は何も言わなかった。ワインを一口飲んだ。

デザートが来た頃、夜の庭が深くなっていた。

石像の影が長く伸びていた。

ナディアが庭を見ていた。

仕事の話をしていないことに、二人とも気づかないふりをしていた。

彼女の日本語が少し柔らかくなっていた。

完璧な文法が、少しだけほどけていた。


「三好さんは、インドネシアで失敗したことはありますか」とナディアが聞いた。

「何度も。」

「どんな失敗ですか。」

「相手を急がせようとしたこと。」俺は少し間を置いた。

「急かした瞬間に、相手は全員逃げる。」


ナディアがしばらく俺を見た。

「今日の話と繋がっていますね。Karimunのこと。」

「仕事も、それ以外も、たぶん同じです。」

ナディアが何かを言おうとして、やめた。

代わりにワインを一口飲んだ。

それでよかった。

言わなかった言葉の方が、時々重い。


「もう少し飲みませんか」と俺は言った。

「空が見えるバーがあります。」

ナディアがこちらを見た。

「三好さんは、次の行き先を最初から決めているんですか。」

「だいたいは。」

「それが宣言型、というやつですか。」俺は少し笑った。

「バレましたか。」

「ジャカルタの人間も、同じことをします。ただ、もっと露骨に。」

「どちらがいいですか。」

ナディアが立ち上がりながら、「三好さんの方が品がある」と言った。


SkyeはムナラBCAタワーの56階にある。

ジャカルタのSCBD地区で最も高いバーのひとつで、360度のガラス張りから都市全体が見渡せる。

エレベーターを降りた瞬間、ナディアが少し立ち止まった。

それだけの夜景だった。

渋滞のジャカルタが、上から見ると別の都市になる。

信号の連なりが光の川になって、高層ビルが宝石のように並んでいた。


ナディアは窓の近くの席に座って、少しの間黙ってジャカルタの夜景を見ていた。

「こんなに広いんですね、この街は」と言った。

「住んでいて、知らなかった。」

「上から見ないと分からないことがある。」

「東京も、そうですか。」

「東京は、横から見た方がよく分かります。」

ナディアが笑った。

「三好さんは、変なことを言いますね。」

「よく言われます。」


カクテルを2杯飲んだ頃、雨が来た。

突然だった。熱帯の雨は予告なく降る。

窓に大粒の雨が打ちつけた。

ジャカルタの夜景が雨粒の向こうに霞んだ。

ナディアが窓を見た。

「帰れなくなりましたね」と言った。


「雨の前に、もう一杯だけ、と思っていたんですが。」俺はグラスを見た。

「間に合いませんでした。」

「そうですね。」ナディアも自分のグラスを見た。

雨は止まなかった。


バーテンダーがおかわりを勧めた。

俺は頷いた。ナディアも頷いた。

窓の外では、ジャ

カルタが雨に濡れていた。

雨脚が強まった頃、俺は言った。

「ホテルまで一緒に戻りましょう。」

事実を提示しただけだった。

ナディアは少し俺を見てから、バッグを手に取った。



【次話予告】

ホテルのバーで最後の一杯を頼んだとき、外の雨はまだ降っていた。

止まない雨が、二人にどれだけの時間を与えるかを、そのとき俺はまだ知らなかった。

第3話「雨は、まだ降っていた」


[第3話] 雨は、まだ降っていた に続く。



Skye(スカイ)

住所: Menara BCA, Jl. M.H. Thamrin No.1, 56F, Jakarta Pusat

おすすめ: シグネチャーカクテル(200,000ルピア〜)

特徴: ムナラBCAタワーの56階に位置する、ジャカルタのスカイラインを360度見渡せるバー。

突然の熱帯雨が窓を打つとき、雨粒に滲んだジャカルタの夜景が別の顔を見せる。

この街に来た者だけが知る、一杯の価値がある場所だ。



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