雨の前に、もう一杯だけ [最終話]
- GENPASS 編集 三好

- 4 日前
- 読了時間: 5分

【最終話】 雨の前に、もう一杯だけ
帰国して、3週間後に次のジャカルタ出張が入った。
スケジュールを見たとき、ナディアに連絡するかどうか考えた。
5秒考えて、連絡した。返事はその夜来た。
「また来るんですね。嬉しいです。夜は空けておきます。」
日本語は相変わらず正確だった。
正確すぎて、どこまでが本音か分からないときがある。
最後の一文だけが、分かりやすかった。
2回目のジャカルタでも、3回目でも、会った。
いつも同じホテルを取った。
いつも夜、どこかで食事をした。
彼女が案内することも多かった。
ロードサイドの食堂で、プラスチックの椅子に座ってサテ・アヤムを食べた夜があった。
「こっちが本当のジャカルタです」とナディアは言って笑った。
串に刺さった鶏の炭火の香りが夜の路地に漂っていた。
俺が東京で想像していたジャカルタとは違う顔だった。
上からしか見たことのない街を、横から歩いている感じがした。
LINEは毎日ではなかったが、続いた。
出張の回数が増えるにつれて、Karimun Batteryとの合意は固まっていった。
契約書が完成したのは、5回目の出張の後だった。
部門長に報告したとき、「よくやった」と言われた。
それだけだった。仕事というのは、そういうものだ。
完結した瞬間より、翌日の業務に移る速度の方が、その仕事の重さを決める。
プロジェクトが一段落すると、ジャカルタに来る頻度が落ちた。
4ヶ月後、ナディアからLINEが来た。
「再来週、東京に出張があります。三好さんのホームに行きます。」
「必ず来ます」という言葉を、俺は半分流していた。
出張の熱が作った約束は、帰国して時間が経つとそのまま流れることが多い。
ナディアはそうならなかった。
約束を守る人間だと分かったのは、守られた後だった。
「どこに行きたいですか」と俺は返した。
「三好さんが決めてください。あなたのホームですから。」
今度は俺が案内する番だった。
六本木の、カウンターだけの小さな和食の店を選んだ。
入り口に看板がない。
予約が取れなくなる前から通っていた店で、
職人が目の前で鱚や鱸を触るのを見ながらおまかせのコースを食べる。28,000円。
東京に住む人間でも、ここを知っている人間は多くない。
こういう店を知っていることが、男の格のひとつだと俺は思っている。
ナディアはカウンターに座って、しばらく店を見回した。
「なんで分かるんですか、こういう店が」と聞いた。
「長く通っているから。」
「東京に、こういう場所がたくさんあるんですか。」
「知ろうとしていれば。」
会話は続いた。でも何かが違った。
ジャカルタでの夜の空気ではなかった。
温かかった。笑いもあった。
でも、SkyeBarで雨を見ていたときの、何かが来ようとしている感じがなかった。
ナディアも気づいているようだった。
気づいた上で、それでも楽しもうとしていた。
その態度が誠実だった。
ジャカルタでの夜に誠実だったように、この夜にも誠実だった。
食事が終わって、夜の六本木を歩いた。
「東京、思っていたより静かです」とナディアが言った。
「どんな東京を想像していたんですか。」
「もっと速い感じ。でも夜は静かなんですね。」
「場所による。」
ナディアのホテルまで歩いた。西麻布の通りだった。
途中で雨が来た。東京の梅雨の雨だった。
傘を持っていなかった。ナディアも持っていなかった。
軒下で少し雨宿りをした。
「また雨ですね」とナディアが言った。
「ジャカルタのときも雨でした。」
「あの夜は止まなかったですね。」
「止まなくて良かった。」
ナディアが笑った。
「そうですね」と言った。
笑い方が少し大人になった気がした。
ホテルの前に着いた。ナディアが振り返った。
「東京、また来てください」と俺は言った。
「来ます」とナディアは言った。
今度の「来ます」には、「必ず」がなかった。
彼女が中に入った。
あれから連絡は続いた。
1ヶ月に一度くらい、他愛のないメッセージが来た。
仕事のことや、東京でまた食べたいものの話や、ジャカルタに新しくできた店の話。
俺も返した。続くかどうか分からないまま、続いていた。
そうしているうちに、自然に間隔が空き始めた。
最後のメッセージがいつだったか、ある日気づいたら1ヶ月以上経っていた。
送ろうと思ったが、送らなかった。
何を書けばいいかが、うまく出てこなかった。
ナディアからも来なかった。それで終わりだった。
劇的なことは何もなかった。
仕事が終わって、出張が減って、連絡の頻度が落ちて、気づいたら止まっていた。
それがジャカルタとの仕事の形だった。
ナディアとの関係もそれと同じ形をしていた。
先週、後輩の田中がジャカルタに初めて出張することになった。
引き継ぎをしながら「どんなところですか」と聞かれた。
「バリとは違います」と俺は言った。
「どう違うんですか。」
「行けば分かります。」
田中が「そういうものですかね」と笑った。
その夜、雨だった。
会社を出て、濡れた路面を歩いた。
コンビニで傘を買うか一瞬考えて、買わなかった。
雨の中を少し歩いて、入り口に灯りがついている小さなバーに入った。
カウンターに座って、ウイスキーを頼んだ。
雨の前に、もう一杯だけ、と思って入った。
いつもそう思う。
でも、いつも間に合わない。
ジャカルタでも、そうだった。
56階の窓に雨が打ちつけて、「帰れなくなりましたね」とナディアが言った。
あの雨が止んでいたら、と考えたことがある。
でも、止まなくて良かった、と今でも思っている。
グラスを傾けた。
窓の外では、東京の雨が静かに降り続けていた。
<完>

The St. Regis Jakarta(ザ・セントレジス・ジャカルタ)
住所: Jalan HR Rasuna Said Kav. 4, Setiabudi, Jakarta Selatan
特徴: SCBDに隣接するセティアブディエリアに建つ、インドネシアを代表するラグジュアリーホテル。
外資の重役とインドネシア財界人が出張で使う一流どころで、エグゼクティブラウンジからはジャカルタの高層ビル群が一望できる。



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