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逃げ水  [第1話/全4話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 12 時間前
  • 読了時間: 5分



【第1話】 Alte Operの、隣の席だった


フランクフルトに来て3日目になる。

EV向け電子制御ユニットの供給交渉が続いていた。

日系自動車メーカーの次世代プラットフォームに搭載する部品を、

どのドイツサプライヤーと、どの条件で確保するか。

競合他社も同じ市場を狙っている中で、何を差別化するか。

それがこの出張の本題だった。


2日目の午後、交渉が止まった。

相手側の技術責任者が「品質保証の範囲が不明確すぎる」と言った。

提案書の弱いところを、正確に突いてきた。

ドイツ人のエンジニアはそういうことをする。

感情より論理、印象より数字。その場で反論するのは賢くない。

「明日、修正した条件を持ってきます」と言って、その日の会議を終えた。


ホテルに戻るタクシーの中で、仕様書を全部読み直した。

何が問題で、何が解決できるか。感情より構造を先に見る。

それが仕事の基本だ。

ドイツのエンジニアが突いてきた弱点は正確だった。

それを認めた上で、使える条件を組み替えること。

反論ではなく、再設計だ。


翌朝、3つの修正条件を提示した。

保証範囲を絞る代わりに、単価を5%下げた。

保証の対象外になるリスクを数値化して、相手が自社でそれを負担するコストと比較できるようにした。

計算が終われば、答えは自ずと出る。

ドイツ人のエンジニアは数字に正直だ。

午後2時に合意の握手があった。


「日本の商社にしては、交渉が速い」と相手は言った。

俺は何も答えなかった。

相手の論理の中に、こちらの結論を置いただけだ。

15年間そのやり方で仕事をしてきた。

速いのではなく、正確なのだ。


その夜、Steigenberger Frankfurter HofのコンシェルジュからAlte Operの件を確認された。

元々は商談相手の担当者と行く予定だったチケットだった。

急病で欠席になって、俺一人で行くことになっていた。

それでよかった。


Alte Operはオペルンプラッツに建つ、1880年建設の旧オペラハウスだ。

戦争で外壁だけを残して焼け落ち、1981年に再建された。

外観は重厚なネオルネサンスの石造りをそのまま保っている。

今はコンサートホールとして使われている。

中に入ると、金と白の装飾が天井まで伸びていた。

客席に着いた。

プログラムはブラームスとリヒャルト・シュトラウス。

この街に来るたびに、夜の使い方をどこかで迷う。

ホテルの部屋に戻るか、街に出るか。

今夜は答えが出ていた。

フランクフルトに来て初めて、仕事の外にいる感覚だった。


隣の席が空いていた。開演5分前、彼女が来た。

170センチを超えていた。

明るい金髪を肩の下まで下ろしていた。

淡いグレーのブラウスに黒のスラックス。

仕事帰りに直接来た様子だった。

席の前を通るとき、短く「すみません」と言った。英語だった。

席に着いて、コートを膝の上に綺麗に畳んだ。何かに慣れた動作だった。


演奏が始まった。しばらく何も言わなかった。

第1部が終わって、客が席を立った。彼女はプログラムを読んでいた。

俺は聞いた。

「よく来るんですか。」

少し俺を見て、「年に1、2回です。近くに住んでいて。」と言った。

次を投げた。

「フランクフルトはどうですか。」

少し考えてから「きれいじゃない。でも機能する。」と言った。

少し笑った。


2つ質問して、笑ってくれた。それだけで十分だった。

名前はLena。Continental AGのエンジニアだと言った。

自動車部品メーカーの名前が出ると、俺は今日の交渉相手の話をした。

彼女は少し驚いた顔をした。"Small world." "Very small." と俺は返した。

「どんな仕事ですか」と彼女は聞いた。

「EVのコンポーネントです」と俺は言った。

「私も似たような仕事をしています」と彼女は言った。

繋がっているから、この業界は面白い。

同じコンサートホールに同じ夜に来て、同じ産業の話をしている。

こういう偶然は、ほとんどの場合どこかに意味がある。


第2部が始まった。

ブラームスの交響曲4番が古いホールの天井に広がっていった。

俺は前を向いていた。

音楽を聴きながら、隣の席の温度を感じていた。

何も言わなくていい時間だった。

出張中にこういう時間は滅多にない。

仕事とホテルと時差の間に存在するのが出張というものだ。

文化や音楽が入ってくる隙間は少ない。

だから、こういう夜は覚えておくことにしている。

ブラームスの旋律が、知らない人間の隣でこれほど自然に聞こえたことが、不思議だった。


終演後、ロビーで少し話した。

コンサートの余韻がまだ空気に残っていた。

人が散っていった。俺たちはしばらく動かなかった。


「明日の夜、食事は空いていますか」と俺は聞いた。

Lenaはコートのボタンをひとつ留めて、少し考えた。

「明日の夜…」少し間があった。

「Why not.」と言った。


"Why not." 断りではなかった。

でも確信でもなかった。

その余白が、彼女のままだった。

外に出ると、フランクフルトの秋の冷気が来た。

彼女が軽く片手を上げて、反対方向へ歩いていった。

その背中を少し見ていた。



【次話予告】

翌夜、ミシュランの星がついた店でLenaはゆっくり話した。

距離は縮まっていた。ただ、あと一歩だけが、どこまでも来なかった。

第2話「Sachsenhausenで、もう一歩が来なかった」



[第2話] Sachsenhausenで、もう一歩が来なかった に続く。



Lafleur(ラフルール)/基本情報

住所: Palmengartenstraße 11, 60325 Frankfurt am Main

おすすめ: テイスティングコース(175ユーロ〜)、タウヌス産ジビエのロースト

特徴: フランクフルト植物園(パルメンガルテン)に隣接する歴史的建物を使ったレストラン。

シェフ、アンドレアス・クロリックはミシュラン2つ星。

タウヌス山地のジビエをドイツの素材だけで仕立てる料理は、この土地でしか成立しない皿だ。

東京で同じものを出しても、この味にはならない。



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