逃げ水 [第3話]
- GENPASS 編集 三好

- 6月14日
- 読了時間: 5分

【第3話】 ソフィーは、フランス語で笑った
Jimmy's Barは1952年創業、Hotel Hessischer Hofのバーだ。
マホガニーのパネルが壁を覆い、深いアンバーの照明が落ちていた。
長い歴史の中で政治家も財界人もここで飲んできた。
フランクフルトに来るたびに立ち寄る人間と、一生知らない人間がいる。
その差は、この街の夜を知っているかどうかだ。
「ここ、よく来るんですか。」と俺は聞いた。
「フランクフルトには年に4、5回来ます。出張のたびに。」ソフィーはバーボンを頼んだ。
「さっき入ってきたとき、何かを考えているような顔をしていましたね。」
「そう見えましたか。」
「見えました。」
彼女は俺を遠慮なく観察していた。
でも嫌な感じはしない観察だった。
フランス人の直接性はドイツ人のそれとは違う。
論理ではなく、感覚で動く。
「どんな出張ですか。」
「電動化対応の部品開発です。あなたと同じ側にいます。でも競合かもしれない。」口角が少し上がった。
「気にしますか。
」「しません。」
ソフィーが少し笑った。
フランス語で短く何か言った。
「何ですか」と聞いた
。「独り言です」と言った。
「パリと比べてどうですか、フランクフルトは。」
「苦手です。でも仕事は来る。人の温度が違います。パリの方が高い。」
「東京も似ています。」
「あなたは東京が好きですか。」
「嫌いじゃない。でも冷たい部分がある。」
「どこの都市も同じですね」とソフィーは言った。
「暖かい部分を探すのが上手な人間と、そうじゃない人間がいるだけで。」
グラスを置いた。俺を見た。
「ここ、あなたのホテルですか。」
「違います。少し先です。」
「そう。」しばらく間があった。
「Shall we take a walk?」と言った。
確認でも提案でもなかった。
そういうことだ、という宣言だった。
Steigenberger Frankfurter Hofの部屋に入ったとき、ソフィーはコートを椅子に投げた。
振り返った。黒い髪が肩にかかった。
浅い褐色の肌が、部屋の明かりに温かく見えた。
これまでアジアで会ってきた女とも、日本人の女とも、体の作りが違った。
鎖骨の幅が広い。
肩の筋肉が薄く盛り上がっている。
脚が長く、関節が大きい。
ヨーロッパの体だった。
「何を見ているんですか。」と彼女は言った。
「全部。」と俺は言った。
ソフィーが笑った。フランス語だった。
今度は意味を聞かなかった。
彼女は待たなかった。先に動いた。
距離を詰めるのに言葉はなかった。
コートのボタンを外す間、俺を見ていた。
見られながら外されることを厭っていない目だった。
むしろ見てほしいと思っている目だった。
肌が触れた瞬間、温度が来た。
褐色の滑らかな肌が、部屋の低い明かりの中で輪郭を持っていた。
鎖骨から胸にかけての線が重力に逆らって立っていた。
腰は細く、その下で脚が長く始まっていた。
彼女がベッドに沈んだとき、黒い髪が枕に広がった。
最初から遠慮がなかった。
ソフィーは何も演じなかった。
あるものをそのまま出してきた。
細い腰に手をかけると、引き寄せる力が返ってきた。
柔らかさの中に確信があった。
こちらが与えるものを正確に受け取って、そのまま返してきた。
フランス語と英語が混ざった。
言葉の意味より声の変化の方が正確だった。
低く変わった声が短く出るたびに、抑えようとしていないことが分かった。
胸は重く柔らかかった。
腰の細さと脚の長さが、引き寄せるたびに伝わってきた。
爪が背中に立った。強くなかった。
でも確かにあった。髪が乱れた。呼吸が浅くなった。
頬が上気して、唇が少し開いたまま動かなくなった。
フランス語と日本語の境界が消えた頃、窓の外でフランクフルトの夜景が光り続けていた。
どこの言語でもなくなった声が、その夜いちばん正確だった。
深夜を過ぎた頃、ソフィーが仰向けになって天井を見た。
「あなた、さっきまで別の人のことを考えていましたか。」
俺は何も言わなかった。
「いいんです。」彼女は言った。
「私もそういう夜はあります。」また笑った。
夜明け頃、ソフィーが先に起きた。
ドレスを着て、鏡で髪を直した。
バッグを持って、俺を見た。
"Bonne chance pour aujourd'hui." と言った。
今日のミーティングがうまくいくといいわね、というような意味だと思った。
ドアが閉まった。軽い別れだった。それが正確だった。
その日、最後の商談があった。
会議室の入り口でLenaと目が合った。
彼女はContinentalの別の会議に来ていたらしく、廊下ですれ違った。
「おはようございます」と彼女は言った。
「おはようございます」と俺は返した。
一秒だけ、彼女が何かを言おうとした。
「三好さん、今夜——」と言いかけた。
止まった。俺を見た。
何かに気づいたような目だった。「……良い帰り道を」と言い直した。
「ありがとうございます」と俺は言った。
廊下を別の方向へ歩いた。
フランクフルト空港へ向かうタクシーの中で、マイン川が窓の外を流れた。
二人の女の顔を交互に思い出した。どちらの顔が正確かが、分からなかった。
【次話予告】
帰国してから数週間後、Lenaからメッセージが届いた。
英語で、丁寧に、あの夜の記憶を添えて。
彼女らしい言葉で書いてあった。
[最終話] 逃げ水 に続く。

Jimmy's Bar(ジミーズ・バー)
住所: Hotel Hessischer Hof, Friedrich-Ebert-Anlage 40, 60325 Frankfurt am Main
おすすめ: クラシックカクテル・ウイスキーセレクション(18ユーロ〜)
特徴: 1952年創業、Hotel Hessischer Hof内のフランクフルトで最も歴史あるバーのひとつ。
深いマホガニーと落ち着いた照明が70年以上変わらない。
この街で夜を知っている人間が最後に行き着く場所だ。




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