逃げ水 [第2話]
- GENPASS 編集 三好

- 6月13日
- 読了時間: 5分

【第2話】 Sachsenhausenで、もう一歩が来なかった
LafleurはパルメンガルテンのすぐそばにあるSiesmayerstraßeに建つ。
19世紀の歴史的な建物をそのまま使った、ミシュラン2つ星の店だ。
シェフのアンドレアス・クロリックがこの厨房を長く引っ張っている。
テーブルに着くと、静けさが違うと分かった。
音量ではなく、空気の密度が違う。
ここで食事をすることを知っている人間だけが来る場所の静けさというものがある。
テイスティングコースを取った。175ユーロ。
鹿肉のロースト。
タウヌス山地産のジビエを、クランベリーのソースとパースニップのピュレで仕立てていた。
表面は薄く焦げ目がついていて、切ると中はまだ赤い。
一口含むと、野性味のある肉の旨みが、ベリーの酸みと交差する。
仕上げに削った黒トリュフが香りを立てた。
この料理が成立するのは、素材をすべてドイツの土地から持ってきているからだ。
東京で同じ皿を出しても、この味にはならない。
この国に来た者だけが口にできる一皿だ。
LenaはSeeforelle——マス科の淡水魚——の料理を頼んでいた。
「フランクフルトには川魚の文化がある」と彼女は言った。
「だからここに住んでいるんですか」と俺は聞いた。
「それだけではないけど、川のある街は好きです。」
「なぜエンジニアになったんですか。」
「父がエンジニアでした。」
しばらくして「もう少し長い理由もある」と言った。
「聞かせてください。」
Lenaが少し間を置いた。
「大学の時、車が嫌いだった」と言った。
「うるさくて、汚くて、危ない。でも、嫌いなものの構造を理解したくなった。それでエンジニアリングを選んだ。そうしたら、好きになっていた。」
「今は好きですか。」
「もちろん。以前よりずっと。分解した後の方が、好きになれる。」
少し間があった。
Lenaがグラスを持ったまま、少し違う声で聞いた。
「……東京に、パートナーはいますか。」
俺は少し間を置いた。「いません。」
「そうですか。」彼女はグラスを見た。
それだけだった。
でもその「そうですか」の置き方は、会話の流れより少しだけ丁寧すぎた。
疑問を短く投げると、彼女は長く答えた。
引き出すのに技術はいらなかった。
聞いていればよかった。
その間、彼女の話し方が少しずつ変わっていった。
プログラムを読んでいたときの整った顔が、少しずつ柔らかくなっていた。
食事が終わって、マイン川沿いを歩いた。
夜のフランクフルトはスカイラインが黒い川に映っていた。
ヨーロッパ中央銀行の旧本部ビルが川の向こうに立っていた。
金融都市と言われるこの街は、夜になると少し人間的な顔を見せる。
Lenaはコートの前を閉めて、川岸を歩いた。
俺と10センチほど距離を保ちながら。
「Sachsenhausenに行ったことがありますか」と俺は聞いた。
「何度も」と彼女は言った。
「地元の人が行く場所ですか。」
「そうです。」
「行きましょう」と俺は言った。
Zum Gemalten HausはSachsenhausen地区のSchweizer Straßeにある。
「塗られた家」を意味する店名の通り、外壁にフランクフルトの風景が描かれている。
中に入ると木のテーブルが並んで、石の壺(ベンベル)から注がれるアプフェルヴァインが置かれていた。
フランクフルトの地酒だ。
リンゴを発酵させた果実酒で、ワインより酸みが強く、炭酸はない。
伝統的なリブ模様のガラス(ゲリッペ)で飲む。
1杯3.5ユーロ。この街に何十年も根を張った味だ。
Handkäse mit Musikを頼んだ。
フランクフルト名物の低脂肪チーズで、生の玉ねぎとワインビネガーのドレッシングがかかっている。
酸みが鋭く、アプフェルヴァインの渋みと合わさると口の中で化学反応が起きる。
観光客が頼まない理由も分かる。
でも、これを食べないとここに来た意味がない。
この街を知っている人間しか注文しない皿だ。
「地元の人は観光客に教えないと聞きました」と俺は言った。
「あなたに教えているから、それは違う」とLenaは言った。
「なぜ教えてくれるんですか。」英語で聞いた。
彼女は少し考えた。
「昨夜、いい質問をしてくれたから。」と言った。
2杯飲んだ頃、Lenaが笑っていた。
何かを言おうとして、言いかけた言葉を一度飲み込んだ。
アプフェルヴァインの酸みで少し頬が赤くなっていた。
午後に会議室にいた人間と、同じ人間だとは思えなかった。
店を出た。深夜1時近かった。
彼女のタクシーを呼んだ。
来るまでの数分、川の方から冷たい空気が来た。
Lenaはコートの前をまた閉めた。
何かを言おうとしている気配があった。
でも言葉は来なかった。タクシーが来た。
Lenaがドアに手をかけた。一度止まった。
「あの、三好さん。」と彼女は言った。
俺は彼女を見た。
「また……連絡できますか。」
声が変わっていた。
仕事の声でなかった。
Alte Operの帰りでもなかった。
もっと低く、少しだけ急いでいるような声だった。
「もちろん」と俺は言った。
Lenaが頷いた。
タクシーに乗った。
振り返らなかった。
俺は空のタクシーが角を曲がるのを、しばらく見ていた。
「また連絡できますか」という言葉が、少し長く耳に残っていた。
Jimmy's Barに入ったのは、1時半を過ぎた頃だった。
バーカウンターに座ってグラスを頼んだ。
Lenaとの夜を頭の中で反芻していた。
距離は縮まっていた。
でも、もう一歩が最後まで来なかった。
彼女のペースなのか、何かが足りなかったのか、判断がつかなかった。
「昨日のプレゼン、覚えていますか」と英語で声をかけてきた女がいた。
振り返った。黒い髪。浅い褐色の肌。
フランス人特有のクールな目元と、少し上がった口角だった。
「午前中の合同会議で隣の席でした」と言った。
「ソフィーです。Valeo から来ています。」
自動車部品サプライヤーの名前だった。
【次話予告】
「昨日のプレゼン、覚えていますか」とソフィーは英語で言った。
Lenaとの夜の余韻の中で、その声は少し早すぎた。
でも、止まらなかった。
第3話「ソフィーは、フランス語で笑った」

Zum Gemalten Haus(ツム・ゲマールテン・ハウス)
住所: Schweizer Str. 67, 60594 Frankfurt am Main(Sachsenhausen地区)
おすすめ: アプフェルヴァイン(3.5ユーロ/グラス)、Handkäse mit Musik
特徴: ザクセンハウゼン地区の伝統的なアプフェルヴァイン酒場。
観光客が来ない、地元のフランクフルト市民が通う場所だ。
石の壺(ベンベル)から注がれる発酵リンゴ酒の酸みと、玉ねぎとビネガーのチーズが合わさったとき、この街が何百年もかけて作ってきた味がある。




![逃げ水 [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_f31ed176cafe47b09bb3991aec3a7fd3~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_f31ed176cafe47b09bb3991aec3a7fd3~mv2.png)
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