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逃げ水  [最終話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
6月15日
読了時間: 4分



【最終話】 逃げ水


帰国してから3週間後、フランクフルトの商談は正式な契約書になった。

EVコンポーネントの供給枠を確保するのに、合計で3ヶ月かかった。

最終確認の電話がドイツから来たとき、俺は東京の会議室にいた。

長い交渉だった。

でも仕事というのはそういうものだ。

終わった瞬間に、次が始まる。

部門長が「よくやった」と言った。

それだけだった。

フランクフルトの3日間が、東京の会議室の一文で閉じた。


その翌日、Lenaからメッセージが来た。

LinkedInだった。英語で書いてあった。

「フランクフルトでの夜はとても良かったです。またいつかフランクフルトに来ることがあれば、ぜひ連絡してください。Lafleurのあのコース、また食べたいと思っています。」


読んだ。もう一度読んだ。

彼女らしい言葉だった。

丁寧で、具体的で、温かかった。

Lafleurという固有の記憶を持ち込んできたのは、あの夜が彼女にとって意味を持っていたからだ。

それは分かった。

Sachsenhausenでタクシーに乗る前に何かを言いかけた女が、こういう形で言葉を送ってきた。

分かった上で、返事を書いた。


「Lena、メッセージありがとう。フランクフルトは良い出張でした。また機会があれば連絡します。お仕事も順調にいくといいですね。」

送信した後、自分の言葉を読み返した。

間違ってはいなかった。

ただ、彼女が書いてきた温度より、少し低かった。

「良い出張でした」——それは事実だった。

「また機会があれば」——それも嘘ではなかった。

でもその言葉の中に、Alte Operの帰りに感じたあの空気はなかった。

翌日になってもそれは変わらなかった。


2日後、Lenaから返事が来た。

"I see." ありがとう。教えてくれて。お元気で、三好さん。

それだけだった。

俺はそのメッセージを、しばらく見ていた。


"I see."——彼女は何かを読んでいた。

俺の言葉の温度を、正確に読んでいた。

何かが変わったことを。

何があったかは分からない。

でも変わったことは分かる——そういう読み方をしていた。


「自分のことを大切に」と書いて、それ以上は何も聞かなかった。

押し付けなかった。

責めなかった。

ただ、静かに引いた。


それ以降、メッセージは来なかった。

俺も送らなかった。

送る言葉が、正直に言えば出てこなかった。

Alte Operで隣に座った女が、少しずつ近づいてきていた。

そのことは分かっていた。

ただ、彼女が一歩踏み込んでくるより先に、別の夜が来てしまった。

出来事には順番がある。その順番が、結末を決める。


彼女が悪かったわけではない。

俺が正しかったわけでもない。

ただ、タイミングがそういうものだった。

"Why not." と言った夜と、"I see." と書いた夜の間に、何かが入ってしまった。

それだけのことだ。

それだけのことが、全てを決めることがある。


Sachsenhausenのタクシーを待っていた数分間、Lenaは何かを言おうとしていた。

あの夜、もし彼女が言葉を出していたら。

でも出なかった。

出なかったから、次の夜があった。

出来事には順番がある。

その順番は、後から変えることができない。


先週、部下の田中がドイツ出張の話をしていた。

「フランクフルトって行ったことないんですが、どんなところですか」と聞かれた。

「きれいじゃない。でも機能する」と答えた。

「それだけですか」

「それが一番正確な説明です」と俺は言った。

田中が引き継ぎ資料を受け取って「なんかそれ、人のことを言っているみたいですね」と笑った。


俺は何も言わなかった。

それは、そうかもしれない。

でも、それ以上のことを言う言葉が見つからなかった。

Alte Operの終演後、コートのボタンを留めていた女の横顔を思い出した。

何かを言おうとして、言わなかった夜があった。


逃げ水、という言葉がある。

夏の照りつける道路の先に、水が溜まっているように見える。

近づくと、また先に移動している。

決してたどり着けない。

実際には存在しない。

光の屈折が作る幻だ。


Lenaはそういう存在だったのかもしれない。

いつも少し先にいた。

Alte Operの終演後も、Sachsenhausenのアプフェルヴァインの夜も、廊下での一秒も——全部、もう少し先だった。

そして彼女自身が、最後に静かに引いた。


"I see."という言葉で、消えた。

今も、どこかの道の先に彼女はいる気がする。

でも追いかけても、たどり着けない。

それが逃げ水の正体だ。

あの夜、Alte Operで隣の席に座ってきた女が、そういう女だったとは、最初は思わなかった。


「きれいじゃない。でも機能する。」と彼女は言った。

フランクフルトについて話した言葉だった。

でも今は、何か別のことを言っていた気がする。


美しくなくていい。でも機能する。

——それが彼女の言うLenaの正直さだったのかもしれない。

そしてそれがいつの間にか、一番正確な言葉になっていた。


<完>



Steigenberger Frankfurter Hof(シュタイゲンベルガー フランクフルター ホフ)

住所: Am Kaiserplatz, 60311 Frankfurt am Main

特徴: 1876年創業、フランクフルトを代表する歴史的ラグジュアリーホテル。カイザープラッツに面した重厚な外観は、この街のビジネスの格そのものだ。ドイツ財界の重役と外資のエグゼクティブが出張で使う一流どころで、交渉が終わった夜に戻る場所としてこれ以上適した宿はない。



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