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心にもないこと  [第2話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
10月3日
読了時間: 8分

更新日:10月5日




【第2話】 鯉のいる中庭


朝の高速は、前の日より30分よけいにかかった。

雨季の終わりの雨が夜のうちに降って、路面の水が引いていない。

原付が水を避けて車線の真ん中まで出てくる。

佐伯はクラクションを一度も鳴らさなかった。


「ここで鳴らすと、余計に寄ってくるんで」

ハンドルを持つ手の甲が焼けている。

この街で運転する人間の手だった。



会議室の空気は、前の日と同じ温度に冷やされていた。

先方も同じ4人。

三好は同じ椅子に座り、リンは同じ位置に座った。


午前の議題は納期だった。

数字が動かない。

昼前に、三好は前の日と同じことを、少し違う言い方で言った。


「この条件のままだと、来期の見積もりは他の国のものと並べます。並べたら、値段以外のところで勝ってもらうしかありません」


リンが訳した。

今度は、長かった。

三好の言葉より長いくらいだった。

削ったのではなく、足したのかもしれない。

だが少なくとも、落としてはいない。

それは相手の顔でわかった。


決裁者の男が資料を閉じた。

ページを繰る音が止まって、部屋が静かになった。

エアコンの音だけが残った。

10秒くらいだったと思う。

商談の10秒は長い。


「三好さん」

佐伯が横から口を開いた。

「ここ、一回休憩にしませんか。コーヒー、頼んできます」


うまい入り方だった。

誰の顔も潰さずに時計を止める。

この5年で身につけたものだろう。


外に出ると、湿気が壁のように立っていた。

喫煙所の屋根の下に、三好とリンだけが残った。

佐伯は先方の窓口と別の話をしに戻っている。


「さっきの訳」

と三好は言った。

「長かった」

「言われたとおりに訳しました」

「ありがとう」

リンは少しだけ意外そうな顔をした。

礼を言われると思っていなかったらしい。


コンクリートの上で、蟻の列が同じ方向に歩いている。

「壊れると思いますか」

三好がそう聞いたのは、ほとんど独り言のつもりだった。

「わかりません」

リンは正面を見たまま答えた。

「壊れたら、私は次を探します」


平坦な声だった。

悲しそうでも、脅しでもない。

天気の話をする速度だった。


「探せますか」

「日本語ができる人は、この街にたくさんいます」

それから、少しだけ言葉を足した。

「日本語しかできない人も、たくさんいます」

三好は何も言えなかった。


言えることが一つもなかったからではない。

言えることは全部、無責任だったからだ。



午後、先方が別の数字を出してきた。

大きくはない。だが動いた。

前の日は動かなかったものが、今日は動いた。


三好は自分のやり方が正しかったとは思わなかった。

ただ、昨日まで止まっていたものが今日は動いたという事実だけが、会議室の机の上に残った。



店は夕方7時に予約してあった。

1区の北のはずれ、タンディンという古い界隈にある。

表の通りから細い道を入って、看板もほとんど出ていない門をくぐる。

もとはフランス時代のヴィラで、それを建築家が自分の店に作り替えた。

名前は「一枚のレンガ」という意味だという。

設計した人間が、自分の商売に建材の名前をつけている。


門を入ると、中庭に出た。

鯉の池がある。

水面に浮いた葉の下で、赤いのと黒いのが一匹ずつ回っている。

池のふちにブンタンの木があって、実が重そうに垂れていた。

その中庭を挟んで、左右に別々のダイニングが向かい合っている。


2階へ上がった。

黄色い壁と、レンガ色のタイル。

1900年代の家の食卓を、そのまま残したような部屋だった。

天井の扇風機が遅い速度で回っている。


出てきた皿は、どれも家の料理の顔をしていた。

レモングラスをまとわせて揚げた豆腐。

外が薄く硬くて、中が崩れる。

噛むとレモングラスの青い匂いが先に来て、そのあとに豆の甘さが来る。


魚の酸っぱいスープ。

タマリンドとパイナップルとオクラが入っていて、

甘いのか酸っぱいのか決まらないうちに、次の一口を飲んでいる。

この国の南のほうの家庭では、これがないと食事が始まらないらしい。


豚バラを皮ごと焼いたものは、皮が硝子のように割れた。

下に敷いてある漬物が塩辛くて、それで脂が流れる。

1皿が110,000ドン、670円ほど。

3人で腹いっぱい食べて、前の晩の1人分にも届かない。


「ここ、私が一番好きな店なんです」

佐伯が言った。

「日本から人が来ると、だいたい連れてきます。高い店に連れていくより、こっちのほうが喜ばれるんで」

「正しい判断だと思います」

「ですよね」

佐伯はよく喋った。


この街の家賃の話、雨季の終わりの話、日本から来る出張者が必ず腹を壊す話。

リンは短く受けて、笑うときは声を出さない。

注文は佐伯が全部した。

リンには何も聞かなかった。


豚バラの皿が来ると、

リンが黙って皮の硬いところを自分の取り皿に寄せて、柔らかいほうを佐伯の側へ押した。

佐伯は見ていなかった。

見ていないのに、手が伸びてそこを取った。


氷が溶けて薄くなった佐伯のグラスに、リンが何も言わずに氷を足す。

佐伯は喋りながらそれを飲んだ。

仲がよかった。

誰が見てもそう見える種類の、仲のよさだった。


三好はそれを見ていて、悪くない気分だった。

他人の何年かが、皿の上にそのまま出ていることがある。


デザートに揚げたバナナが来たとき、佐伯がふと言った。

「三好さん。今日の商談、ちょっと空気が硬くなったでしょう」

「なりました」

「あれ、私は悪くないと思ってます。動かすには一回止めないとだめなときがあるんで」

それから、隣を見た。

「でも、もしこの話が流れても、リンはうちで守りますから。そこは心配しないでください」

リンが顔を上げた。

「はい」

そう言って、少し笑った。


三好は、バナナを口に入れたまま動きを止めた。

昼間、喫煙所の屋根の下で、この女はこう言った。


壊れたら、私は次を探します。


いま、同じ女が「はい」と言った。

嘘ではない。

「はい」は嘘をつける言葉ではない。

ただ、昼間の声には入っていたものが、いまの「はい」には入っていなかった。

角が落ちている。


佐伯は本気で守るつもりでいる。

それは声でわかる。

5年この街にいて、部下を守れると思っている人間の声だ。


リンは、守れないと思っている。

日本語しかできない人がこの街にたくさんいる、

と昼に言った女が、そう思っていないはずがない。


そして彼女は、それを佐伯に言わない。

言えば佐伯が傷つくからだ。

守れると思っている人間に、守れませんと言うのは、殴るのと同じことだ。


——この女は、佐伯にも通訳している。


三好はそう思ってから、自分の思いつきの意地の悪さに、少しうんざりした。

恋人に全部言う人間がこの世にどれだけいる。

言わないことを一つずつ数えていけば、どんな二人だって壊れる。

自分にその権利があるわけでもない。


ただ、そう思ってもなお、引っかかったものが残った。

昼間の彼女は、三好にだけ角を落とさずに喋った。

理由はたぶん、優しさでも信頼でもない。

三好が、4日で消えるからだ。


消える人間に何を言っても、明日の生活には響かない。

人は、二度と会わない相手にだけ平気で本当のことを言う。

飛行機で隣になった男に離婚の話をするのと同じで、

そこにあるのは信頼でも好意でもなく、

後始末をしなくていいという安心だけだ。

昼間あの女が三好に見せたのは、たぶんそういう種類の本音だった。



会計は佐伯が済ませていた。

「経費で落としますから」

「そういうわけには」

「ここ、領収書がすごく雑なんで、逆に落ちるんですよ」

そう言って笑った。


門を出ると、路地はもう暗かった。

中庭の池の水音が、外まで聞こえている。

「あ、そうだ」

佐伯が原付の鍵を出しながら振り返った。


「三好さん、明日の夜なんですけど。私、東京と電話会議が入っちゃって」

「何時から」

「8時から、たぶん11時まで。うちの本部、こっちの時間を一度も考えたことがないんで」

佐伯は笑って、それから何でもないことのように続けた。

「なので明日の夜は、リンと2人で行ってもらえますか。店、押さえておきます」


リンは何も言わなかった。

佐伯も、三好の返事を待つ顔をしていなかった。

断られると思っていないからだ。

何も疑っていない人間の、いい顔だった。

「わかりました」

と三好は言った。


原付が走り出して、テールランプが路地の角で消えた。

三好はしばらくそこに立っていた。

鯉の池の水音がまだ聞こえていた。

あの池の水は、たぶん何年も同じところを回っている。



【次話予告】

店を決めたのは佐伯で、席を取ったのも佐伯だった。

築100年の家を改装したバーで、部屋がいくつもある。

部屋を移るたびに、話が一つずつ深くなった。

そして三好は、昼間ずっと聞けなかったことを聞いた。

あの日、俺の言葉を削ったのは、誰のためですか。




Cục Gạch Quán(クック・ガック・クアン)

10 Đặng Tất, Tân Định(旧1区)

建築家が古いフレンチ・ヴィラを改装した食堂で、店名は「一枚のレンガ」の意味。ミシュランのビブグルマン。中庭に鯉の池とブンタンの木があり、2階は1900年代の家の食卓をそのまま残したような部屋になっている。

名物はレモングラスをまとわせた揚げ豆腐と、タマリンドで酸味をつけた魚のスープ。1皿110,000ドン、約670円。毎日9時から23時半。表に看板がほとんど出ていないので、地図を出してから向かうこと。




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