心にもないこと [第2話]

更新日:10月5日

【第2話】 鯉のいる中庭
朝の高速は、前の日より30分よけいにかかった。
雨季の終わりの雨が夜のうちに降って、路面の水が引いていない。
原付が水を避けて車線の真ん中まで出てくる。
佐伯はクラクションを一度も鳴らさなかった。
「ここで鳴らすと、余計に寄ってくるんで」
ハンドルを持つ手の甲が焼けている。
この街で運転する人間の手だった。
会議室の空気は、前の日と同じ温度に冷やされていた。
先方も同じ4人。
三好は同じ椅子に座り、リンは同じ位置に座った。
午前の議題は納期だった。
数字が動かない。
昼前に、三好は前の日と同じことを、少し違う言い方で言った。
「この条件のままだと、来期の見積もりは他の国のものと並べます。並べたら、値段以外のところで勝ってもらうしかありません」
リンが訳した。
今度は、長かった。
三好の言葉より長いくらいだった。
削ったのではなく、足したのかもしれない。
だが少なくとも、落としてはいない。
それは相手の顔でわかった。
決裁者の男が資料を閉じた。
ページを繰る音が止まって、部屋が静かになった。
エアコンの音だけが残った。
10秒くらいだったと思う。
商談の10秒は長い。
「三好さん」
佐伯が横から口を開いた。
「ここ、一回休憩にしませんか。コーヒー、頼んできます」
うまい入り方だった。
誰の顔も潰さずに時計を止める。
この5年で身につけたものだろう。
外に出ると、湿気が壁のように立っていた。
喫煙所の屋根の下に、三好とリンだけが残った。
佐伯は先方の窓口と別の話をしに戻っている。
「さっきの訳」
と三好は言った。
「長かった」
「言われたとおりに訳しました」
「ありがとう」
リンは少しだけ意外そうな顔をした。
礼を言われると思っていなかったらしい。
コンクリートの上で、蟻の列が同じ方向に歩いている。
「壊れると思いますか」
三好がそう聞いたのは、ほとんど独り言のつもりだった。
「わかりません」
リンは正面を見たまま答えた。
「壊れたら、私は次を探します」
平坦な声だった。
悲しそうでも、脅しでもない。
天気の話をする速度だった。
「探せますか」
「日本語ができる人は、この街にたくさんいます」
それから、少しだけ言葉を足した。
「日本語しかできない人も、たくさんいます」
三好は何も言えなかった。
言えることが一つもなかったからではない。
言えることは全部、無責任だったからだ。
午後、先方が別の数字を出してきた。
大きくはない。だが動いた。
前の日は動かなかったものが、今日は動いた。
三好は自分のやり方が正しかったとは思わなかった。
ただ、昨日まで止まっていたものが今日は動いたという事実だけが、会議室の机の上に残った。
店は夕方7時に予約してあった。
1区の北のはずれ、タンディンという古い界隈にある。
表の通りから細い道を入って、看板もほとんど出ていない門をくぐる。
もとはフランス時代のヴィラで、それを建築家が自分の店に作り替えた。
名前は「一枚のレンガ」という意味だという。
設計した人間が、自分の商売に建材の名前をつけている。
門を入ると、中庭に出た。
鯉の池がある。
水面に浮いた葉の下で、赤いのと黒いのが一匹ずつ回っている。
池のふちにブンタンの木があって、実が重そうに垂れていた。
その中庭を挟んで、左右に別々のダイニングが向かい合っている。
2階へ上がった。
黄色い壁と、レンガ色のタイル。
1900年代の家の食卓を、そのまま残したような部屋だった。
天井の扇風機が遅い速度で回っている。
出てきた皿は、どれも家の料理の顔をしていた。
レモングラスをまとわせて揚げた豆腐。
外が薄く硬くて、中が崩れる。
噛むとレモングラスの青い匂いが先に来て、そのあとに豆の甘さが来る。
魚の酸っぱいスープ。
タマリンドとパイナップルとオクラが入っていて、
甘いのか酸っぱいのか決まらないうちに、次の一口を飲んでいる。
この国の南のほうの家庭では、これがないと食事が始まらないらしい。
豚バラを皮ごと焼いたものは、皮が硝子のように割れた。
下に敷いてある漬物が塩辛くて、それで脂が流れる。
1皿が110,000ドン、670円ほど。
3人で腹いっぱい食べて、前の晩の1人分にも届かない。
「ここ、私が一番好きな店なんです」
佐伯が言った。
「日本から人が来ると、だいたい連れてきます。高い店に連れていくより、こっちのほうが喜ばれるんで」
「正しい判断だと思います」
「ですよね」
佐伯はよく喋った。
この街の家賃の話、雨季の終わりの話、日本から来る出張者が必ず腹を壊す話。
リンは短く受けて、笑うときは声を出さない。
注文は佐伯が全部した。
リンには何も聞かなかった。
豚バラの皿が来ると、
リンが黙って皮の硬いところを自分の取り皿に寄せて、柔らかいほうを佐伯の側へ押した。
佐伯は見ていなかった。
見ていないのに、手が伸びてそこを取った。
氷が溶けて薄くなった佐伯のグラスに、リンが何も言わずに氷を足す。
佐伯は喋りながらそれを飲んだ。
仲がよかった。
誰が見てもそう見える種類の、仲のよさだった。
三好はそれを見ていて、悪くない気分だった。
他人の何年かが、皿の上にそのまま出ていることがある。
デザートに揚げたバナナが来たとき、佐伯がふと言った。
「三好さん。今日の商談、ちょっと空気が硬くなったでしょう」
「なりました」
「あれ、私は悪くないと思ってます。動かすには一回止めないとだめなときがあるんで」
それから、隣を見た。
「でも、もしこの話が流れても、リンはうちで守りますから。そこは心配しないでください」
リンが顔を上げた。
「はい」
そう言って、少し笑った。
三好は、バナナを口に入れたまま動きを止めた。
昼間、喫煙所の屋根の下で、この女はこう言った。
壊れたら、私は次を探します。
いま、同じ女が「はい」と言った。
嘘ではない。
「はい」は嘘をつける言葉ではない。
ただ、昼間の声には入っていたものが、いまの「はい」には入っていなかった。
角が落ちている。
佐伯は本気で守るつもりでいる。
それは声でわかる。
5年この街にいて、部下を守れると思っている人間の声だ。
リンは、守れないと思っている。
日本語しかできない人がこの街にたくさんいる、
と昼に言った女が、そう思っていないはずがない。
そして彼女は、それを佐伯に言わない。
言えば佐伯が傷つくからだ。
守れると思っている人間に、守れませんと言うのは、殴るのと同じことだ。
——この女は、佐伯にも通訳している。
三好はそう思ってから、自分の思いつきの意地の悪さに、少しうんざりした。
恋人に全部言う人間がこの世にどれだけいる。
言わないことを一つずつ数えていけば、どんな二人だって壊れる。
自分にその権利があるわけでもない。
ただ、そう思ってもなお、引っかかったものが残った。
昼間の彼女は、三好にだけ角を落とさずに喋った。
理由はたぶん、優しさでも信頼でもない。
三好が、4日で消えるからだ。
消える人間に何を言っても、明日の生活には響かない。
人は、二度と会わない相手にだけ平気で本当のことを言う。
飛行機で隣になった男に離婚の話をするのと同じで、
そこにあるのは信頼でも好意でもなく、
後始末をしなくていいという安心だけだ。
昼間あの女が三好に見せたのは、たぶんそういう種類の本音だった。
会計は佐伯が済ませていた。
「経費で落としますから」
「そういうわけには」
「ここ、領収書がすごく雑なんで、逆に落ちるんですよ」
そう言って笑った。
門を出ると、路地はもう暗かった。
中庭の池の水音が、外まで聞こえている。
「あ、そうだ」
佐伯が原付の鍵を出しながら振り返った。
「三好さん、明日の夜なんですけど。私、東京と電話会議が入っちゃって」
「何時から」
「8時から、たぶん11時まで。うちの本部、こっちの時間を一度も考えたことがないんで」
佐伯は笑って、それから何でもないことのように続けた。
「なので明日の夜は、リンと2人で行ってもらえますか。店、押さえておきます」
リンは何も言わなかった。
佐伯も、三好の返事を待つ顔をしていなかった。
断られると思っていないからだ。
何も疑っていない人間の、いい顔だった。
「わかりました」
と三好は言った。
原付が走り出して、テールランプが路地の角で消えた。
三好はしばらくそこに立っていた。
鯉の池の水音がまだ聞こえていた。
あの池の水は、たぶん何年も同じところを回っている。
【次話予告】
店を決めたのは佐伯で、席を取ったのも佐伯だった。
築100年の家を改装したバーで、部屋がいくつもある。
部屋を移るたびに、話が一つずつ深くなった。
そして三好は、昼間ずっと聞けなかったことを聞いた。
あの日、俺の言葉を削ったのは、誰のためですか。
Cục Gạch Quán(クック・ガック・クアン)
10 Đặng Tất, Tân Định(旧1区)
建築家が古いフレンチ・ヴィラを改装した食堂で、店名は「一枚のレンガ」の意味。ミシュランのビブグルマン。中庭に鯉の池とブンタンの木があり、2階は1900年代の家の食卓をそのまま残したような部屋になっている。
名物はレモングラスをまとわせた揚げ豆腐と、タマリンドで酸味をつけた魚のスープ。1皿110,000ドン、約670円。毎日9時から23時半。表に看板がほとんど出ていないので、地図を出してから向かうこと。




![心にもないこと [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_d3060c1ed1f0478088d432f383700717~mv2.png/v1/fill/w_980,h_653,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_d3060c1ed1f0478088d432f383700717~mv2.png)
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