心にもないこと [第3話]

更新日:10月5日

【第3話】 部屋を移る
3日目の商談で、大筋が見えた。
先方は2回に分けて値段を下げてきた。
2回目のほうが小さい。
これ以上は出ないという出し方だ。
東京が欲しがっている線には届かないが、届かないなりの理屈は立つ。
つまり三好の中では、結論が出つつあった。
それを口に出す場面は、この出張にもうない。
持ち帰って書く報告書の中にしかない。
夕方、佐伯がホテルまで送ってくれた。
「すみません、今日は本当に出られなくて。うちの本部、23時まで平気で押さえてくるんで」
「気にしないでください」
「店、予約しときました。リンに場所送ってあります」
エンジンをかけたまま、佐伯が笑った。
「あそこ、部屋がいっぱいあって面白いんですよ。三好さん、たぶん好きだと思います」
店はサイゴン川沿いにあった。
100年前に建った屋敷を、そのままバーにしている。
看板は小さい。
天井が高く、剥き出しの煉瓦に低い灯りが当たっている。
もとが誰かの家だから部屋がいくつもあって、奥へ行くほど狭く、暗くなる。
数年前まではネオンの派手な店だったのを全部剥がして、建物の顔に戻したのだという。
途中で決めて、そうなった店だ。
リンは先に来ていた。
仕事の服のままだった。
白いシャツに黒いパンツ。
髪も後ろで束ねたままだ。
「佐伯さんが、ここの1階を取ってくれました」
最初の部屋は人が多かった。
金曜の夜で、隣の席の英語が大きい。
「何にしますか」
「任せます」
リンが頼んだのは、緑豆を使ったカクテルだった。
テキーラに、イチジクの葉と、この国の緑豆と、麹で作った甘酒が入っている。
1杯31万ドン、1,900円ほど。
飲むと、最初に青い匂いが来て、そのあとに米の甘さが後ろから上がってくる。
強いのに、角がない。
「これ、甘酒ですよね」
「はい。日本のものだと聞きました」
「なんでベトナムのバーに甘酒が」
「わかりません。おいしいからだと思います」
リンがそう言って、少し笑った。声は出さない。
最初の1時間は、仕事の話しかしなかった。
明日の予定、書類の送り先、日本に戻ってからの手順。
三好が聞いて、リンが答える。
会議室の続きだった。
ただ、リンはよく飲んだ。
1杯目を早く空けて、2杯目を自分から頼んだ。
「普段も飲むんですか」
「あまり」
「今日は」
「今日は飲みます」
それ以上は言わなかった。
「部屋、移れますか」
三好がそう言ったのは、隣の英語がうるさかったからだ。
ほかに理由はなかった。
2階の奥の部屋は、客が2組しかいなかった。
背の高い革の椅子が向かい合わせに置いてある。
誰かの書斎だった場所らしい。
窓の外に川が見えて、対岸の工事中のビルに赤い灯が点いている。
2杯目に頼んだのは、この国の山で作っているジンだった。
北の山岳地帯の人たちから直接買った植物を16種類使っていて、
ベトナム語の名前がない葉も入っているという。
飲むと、知らない匂いが順番に来る。
「リンさんは、その辺りに行ったことは」
「ありません。同じ国ですけど」
そこから、少しずつ本人の話になった。
リンはメコンの川沿いの町の出で、家は米と果物をやっていた。
大学で日本語を選んだのは、中国語の枠がもう埋まっていたからだという。
憧れはなかった、と本人が言った。
卒業してホーチミンに出て、日系の会社に入った。
通訳をやりながら、書類の仕事も覚えた。
「佐伯さんとは、どこで」
「うちの会社です。佐伯さんが来た年に、私が付きました」
「じゃあ5年」
「5年です」
川を貨物船が一隻、ゆっくり下っていった。
エンジンの音が窓を少しだけ震わせた。
「もう一つ、奥に部屋があります」
リンがそう言った。
今度は、彼女のほうから言った。
いちばん奥の部屋は、ほとんど人がいなかった。
低いソファが二つあるだけで、灯りは一つ。
煉瓦の壁の冷たさが、背中から来る。
三好は、ここまで来たら聞いていいと思った。
昼のうちはずっと聞けなかったことだ。
「初日のことなんですけど」
「はい」
「あの日、俺の言葉を削ったのは、誰のためですか」
リンはグラスを置いた。
それから、少しのあいだ川のほうを見ていた。
答えを探していたのではなく、答えていいかどうかを決めていた顔だった。
「私のためです」
はっきりした声だった。
「先方のためでも、会社のためでもありません。私が困るからです」
「困る」
「話が壊れたら、この取引はなくなります。なくなったら、日本語の通訳は要らなくなります」
「佐伯さんは守ると言った」
「言いました」
リンは頷いた。
「あの人は本気です。だから、余計に言えません」
三好は黙って続きを待った。
「私が『守れないと思います』と言ったら、あの人は自分を責めます。私に怒るんじゃなくて、自分を嫌いになります。私はそれを見たくありません」
「だから何も言わない」
「削ります」
彼女はその言葉を使った。
「私は、あの人に対しても、ずっと削っています」
三好はグラスの縁を指でなぞった。冷たかった。
「俺には言うんですね」
「はい」
「なぜ」
「三好さんが、明後日いなくなるからです」
即答だった。
あまりに即答だったので、三好は少し笑ってしまった。
「はっきり言うんだな」
「削らないでください、と言われましたので」
それを言ったのは自分だった。
初日の廊下で、この女に、そのまま訳せと言った。
角が立つなら立たせろと言った。
彼女はそれを、仕事の言葉だけではなく、自分の言葉にも当てはめている。
「怖いですか」
三好がそう聞いたのは、ほとんど反射だった。
「怖いです」
リンは前を見たまま答えた。
「ある朝、会社に行ったら、会議室で中国語が聞こえます。私の代わりの人が、もう座っています。誰も私には何も言いません。そういう終わり方です」
「実際にあった話ですか」
「去年、別の会社でありました。その人、いまタクシーの配車の会社にいます」
淡々としていた。淡々としすぎていた。
三好はグラスを置いた。
聞かなくてもいいことだった。
聞いたところで何も渡せない。
それでも聞いた。
「仕事がなくなるのが怖いんですか。それとも、佐伯さんがいなくなるのが怖いんですか」
リンが顔を上げた。
そして、答えなかった。
答えたくなかったのではない。
答えられないのだと、顔を見てわかった。
口が動きかけて、止まって、また動きかけた。
「……わかりません」
ようやく出てきたのがそれだった。
「わからないんです。同じだから」
「同じ?」
「会社がなかったら、私はあの人に、毎日会いません」
そこで、日本語が崩れた。
「毎日会わないと、私は、あの人の……その、何ですか、あの人の、何でもない人です。誰にも言っていません。家族も知りません。会社の人も知りません。会社の中だけ、私たちは、あの、」
一度止まって、息を吸って、それから首を振った。
「すみません。言葉が、出ません」
助詞が落ちた。
語尾が消えた。
途中で主語がなくなった。
初日からずっと、一度も間違えなかった日本語だった。
会議室で何時間喋っても、教科書から一文字もずれなかった日本語だった。
それが、三十秒で壊れた。
リンは自分の手を見ていた。
指先が、グラスの水滴で濡れている。
「日本語じゃなくていい」
三好はそう言った。
「え」
「意味は、わからなくていいです」
リンは三好を見て、それから下を向いた。
少しだけ、ベトナム語で何か言った。
三好にはひとつもわからなかった。
わからなかったが、それが今日この女の口から出た中で、いちばん短い言葉だということだけはわかった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
奥の部屋には音がない。
表の部屋の話し声が、壁を二枚隔てて遠くで鳴っているだけだった。
動いたのは、リンのほうだった。
肩が、三好の腕に触れた。
寄りかかったというほどの重さではない。
置いた、という程度だった。
それでも、この女がこの3日間、
一度も自分からは縮めなかった距離が、そこで10センチだけ縮んだ。
「三好さん」
「はい」
「私のこと、抱いてもらっていいですか」
削っていなかった。
遠回りもしなかったし、言い方を変えもしなかった。
会議室でずっと人の言葉の角を落としてきた女が、
いちばん角の立つ言い方でそれを言った。
三好はすぐに答えなかった。
断る理由なら、いくらでも並べられた。
この女は酔っている。
さっき壊れたばかりだ。
明日になれば後悔する。
そして自分には、この女に渡せるものが何一つない。
ただ、並べたところで、
そのどれもが「自分が悪者にならないための理屈」でしかないことも、三好にはわかっていた。
「わかりました」
そう答えた。
優しいことも、格好のつくことも言わなかった。
言えば嘘になる。
ホテルの部屋は5階だった。
窓の下にドンコイ通りがあって、原付の音がまだ止まらない。
カーテンを引くと、音だけが残った。
髪をほどいたのは、リンのほうだった。
束ねていたゴムを外すと、思っていたより長かった。
肩より下まである。
ほつれ毛が一本もなかった髪が、一度にばらけて顔の横に落ちた。
それだけで、別の人間が立っているように見えた。
165センチ。細い。
48か49キロくらいだろう。
シャツを脱がせると、腕の薄さが目で見てわかった。
肘の骨が張っていて、そこから肩にかけて筋がまっすぐ通っている。
背中は骨が数えられるほどではないが、腰のところに窪みが二つあった。
押すと硬い。
胸は小さかった。
小ささが、この体では正しかった。
抱えたときに全部が腕の中に入って、余りが出ない。
首の後ろに、日焼けの境目があった。
シャツの襟の線だ。そこから下だけが白い。
この女が何年も同じ服で働いてきたことが、皮膚に残っている。
灯りは、スタンドを一つだけ点けた。
声は低かった。
日本語ではなかった。
ベトナム語でもなかったと思う。
三好が聞き取れる言葉は一つも出てこなかった。
削らない、というのはこういうことかと思った。
気づいたら23時を回っていた。
リンが先に起きて、ベッドの縁に座った。
窓のほうを一度見て、それからスマホを手に取った。
画面の光が横顔に当たった。
そこで、動きが止まった。
三好の位置から画面は見えない。
ただ、通知が上から下まで積み上がっていて、
同じ名前が並んでいるのだけはわかった。
リンはスクロールもせずに、上から順に読んでいた。
読み終わってからも、しばらく画面を見ていた。
「なんて書いてあるんですか」
聞かなくていいことだった。
リンは少し黙ってから、読み上げた。
「終わったよ。ごはん食べた?」
「三好さん、ちゃんと帰った?」
「明日6時に出るから、先に寝てて」
「気をつけて」
4つだった。
どれも用件ですらない。
佐伯は今夜、東京の本部に3時間喋らされて、それが終わった直後にこれを打っている。
返事が来ないのを承知で、4つとも打っている。
リンはスマホを伏せて、膝の上に置いた。
何も言わなかった。
泣きもしなかったし、謝りもしなかった。
ただ、さっきまでとは背中の形が違っていた。
三好はそれを見ていた。
自分がこの数時間でこの女にしてやれたことと、
あの4行は、同じ天秤に乗らない。
乗せるまでもなかった。
三好が渡したのは、一晩だけ日本語を崩していい時間だ。
佐伯が渡しているのは、明日の6時に家を出るという事実のほうだった。
この女は、今夜のことで佐伯を嫌いになったりしない。
たぶん、逆だ。
明日がある夜ではないことは、どちらもわかっていた。
言わないことで合意していた。
リンはシャワーを浴びて、服を着て、鏡の前で髪を結び直した。
両手を後ろに回して、一度でまとめた。
ゴムを二回巻いて、指で撫でつけた。
ほつれ毛が、一本もなくなった。
「いろいろ話を聞いてくれて、今日はありがとうございました」
ドアのところで、そう言った。
日本語だった。
教科書のように正確な、敬語だった。
聞いてくれて、と言った。
抱かれたことについては、一言も言わなかった。
この女にとって今夜の中身が何だったのかが、その一行でわかる。
戻った、と三好は思った。
この女は、明日の朝にはもう削る側に戻っている。
そして自分は、たった一晩だけ、それを解かせた人間だ。
解いたところで何も守れないのに。
【次話予告】
最終日の朝、空港へ向かう車に3人で乗った。
佐伯が運転して、リンが助手席、三好は後ろ。
高速に入ってすぐ、助手席から声がした。
三好はその一言で、自分が4日間で何をしたのかを理解した。
理解できるのは、この街でただ一人だった。
The Enigma Mansion(ジ・エニグマ・マンション)
5H Tôn Đức Thắng, Bến Nghé(旧1区)
サイゴン川沿いの築100年の邸宅をそのまま使ったカクテルバー。Asia's 50 Best Bars 2026で55位。数年前までのネオンの内装を全部剥がして、建物の顔に戻している。
もとが住居なので部屋がいくつもあり、奥へ行くほど狭く暗くなる。連れの話が深くなったら部屋を移る、という使い方ができる店はそう多くない。1杯31万ドン、約1,900円。毎日16時から翌1時半。




![心にもないこと [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_d3060c1ed1f0478088d432f383700717~mv2.png/v1/fill/w_980,h_653,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_d3060c1ed1f0478088d432f383700717~mv2.png)
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