top of page

心にもないこと  [最終話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
10月5日
読了時間: 8分



【最終話】 心にもないこと


最終日の朝は、雨の音で目が覚めた。

5分で止んだ。

この街の雨はいつもそうで、

降っている最中だけ世界が終わりそうな音を立てて、あとは何もなかった顔をする。


シーツはもう直してあった。

ベッドの右側だけ、少し形が残っていた。

それを見ないようにして、スーツケースを閉めた。


チェックアウトの前に、一度だけ8階へ上がった。

バーは当然閉まっている。

ガラス越しに川が見えた。

この4日間、この店では一杯も飲んでいない。

夜は毎晩、外に出ていたからだ。


100年前にこの建物を建てたのは、

この街の不動産を握っていた男だという話を、初日に佐伯から聞いた。

名前も聞いた。もう思い出せなかった。



出発は昼過ぎの便だった。

チェックアウトのあと、佐伯とリンが迎えに来て、

空港へ行く前にコーヒーを飲むことになった。


店は1区の古いビルの上階にあった。

入口は狭くて、看板もほとんど出ていない。

人ひとり分の階段を上がると、急に天井の高い部屋に出る。

窓が縦に長く、木の床がすり減っていて、壁ぎわに麻袋が積んである。


この国のコーヒーがどこから来たのかを、1850年代から順に説明してくれる店だった。

宣教師が持ち込んで、高原で育って、戦争をまたいで、いまは世界で二番目に多く外に出している。

その話を、淹れている人間が手を動かしながらする。


出てきたのはフィンという道具だった。

グラスの上に小さな金属の筒が乗っていて、その中で挽いた豆に湯が落ちていく。

落ちるのを待つしかない。

振っても、押しても、早くはならない。

急ぐ人間のための器具ではない。


グラスの底には練乳が沈んでいる。

落ちきったところでスプーンで混ぜると、

黒と白が一度だけ渦になって、そのあと全部が同じ色になる。


バクシウという飲み方だった。

練乳が主で、コーヒーが少し。甘い。

甘いのに、後ろに苦さが残る。

豆はロブスタで、この国の日常のコーヒーはほとんどこれだという。

日本で飲んでいるものとは、別の飲み物だと思ったほうがいい。


「三好さん、これ飲めます?」

佐伯が聞いた。

「甘いですけど、慣れると朝はこれです」

「悪くない」

「でしょう。日本に帰ると、物足りなくなりますよ」


佐伯は今日もよく喋った。

週末に行くつもりの店の話、雨季がもう終わるという話、来月の連休の話。

リンは短く受けた。

昨日までと、何も変わらないように見えた。

リンは自分の分を混ぜずに、ずっと落ちるのを見ていた。


落ちきるまでに4分くらいかかる。

その4分のあいだ、誰も何も喋らなかった。

それで困らない4分だった。



9時40分に店を出た。

佐伯が運転して、リンが助手席に座り、三好は後ろに乗った。

空港までは、この時間なら40分ほどだという。

高速に入ってすぐ、佐伯が言った。


「三好さん、今回はすみませんでした。先方をあそこまでしか動かせなくて」

「動かないものは動かない」

「ですよね」

それから、少し明るい声にした。

「まあ、この案件が流れても、こっちはこっちで別の口を探しますから。大丈夫です」


助手席から声がした。

「大丈夫じゃないです」


車の中が静かになった。

エアコンの音と、路面の音だけになった。

三好は後部座席で、体を動かさなかった。

動かさなかったが、頭のどこかが冷たくなるのがわかった。


昨日までのこの女なら、こうは言わなかった。

「はい」と言った。

あの晩、鯉のいる店で、佐伯が「守りますから」と言ったときに、そう言った。

声を出さずに笑って、それで終わりにした。

昨日まで、この女は佐伯に対して削っていた。

削っていない。


「……そっか」

佐伯の声が、少しだけ遅れて返ってきた。

怒ってはいなかった。

驚いてもいなかったと思う。

ただ、そのあと10秒くらい何も言わなかった。


前を走るトラックの荷台に、パイプが積んであった。

番号を打った札が風で鳴っている。

三好はそれを数えていた。

数えるようなものでもないのに、数えていた。


「うん」

ハンドルを持ち直す音がした。

「じゃあ、流れないようにするしかないね」


リンは何も答えなかった。

答えなかったが、窓のほうを向いていた顔が、少しだけ運転席の側に動いた。

それだけだった。


前の座席の二人は、そのあと工業団地の道路工事の話をした。

どこが通れないとか、来月から片側通行だとか、そういう話だった。

三好はそれを後ろから聞いていた。


この4日間で自分が何をしたのかを、そのとき初めて、はっきりと理解した。

自分が渡したのは、一晩だけ日本語を崩していい時間ではなかった。

もっと悪いものだ。


あの女は、削らずに喋ったらどうなるかを、一度だけ覚えてしまった。

覚えたものは戻らない。

だから今朝、恋人に向かって「大丈夫じゃないです」と言えた。


それは、たぶんいいことだった。

いいことをした人間が、いま後部座席にいて、誰にも何も言えずにいる。



空港は混んでいた。

出発階の縁石に車が3重に停まっていて、警備が笛を吹きながら手を回している。

停めていられるのは1分あるかどうかで、

トランクからスーツケースを下ろすまでが勝負だった。


この街に着いた日は、この同じ道を反対向きに、佐伯の運転で走った。

窓を10センチ開けて、生温かい風が入ってきた。

4日しか経っていない。


「三好さん、ありがとうございました」

佐伯が手を出してきた。握手は固かった。

「次はもっといい数字にしますから」

「こっちも東京で当たってみます」

三好はそう言った。

「値段だけの勝負にならないように書きます」

佐伯が一度、瞬きをした。

「……ありがとうございます」


リンは少し後ろに立っていた。

白いシャツに、黒いパンツ。

髪は後ろで束ねてある。

3日前とまったく同じ格好だった。


「三好さん」

「はい」

「気をつけて」

それだけだった。

教科書のように正確な日本語だった。


三好はその言葉を、昨日の夜に一度見ている。

リンのスマホに並んでいた、佐伯からの4つの連絡。

その最後の一つが、同じだった。


 気をつけて。


打ったのは佐伯で、口に出したのはリンだ。

二人が同じ言葉を使うようになるには、たぶん5年かかる。

それを知っているのは、この街で三好だけだった。


自動ドアの内側に入ってから、一度だけ振り返った。

車はもう縁石を離れていた。



日本に帰って、報告書を書いた。

結論は「継続が妥当」にした。

値段は届いていない。

ただ、切り替えたときに出ていく費用と、

新しい相手で品質が安定するまでの期間を並べれば、数字の上での説明はつく。

実際つく。嘘は一行も書いていない。


書きながら、三好は自分の手つきを一度も疑わなかった。

疑わずに書ける文章だったからだ。


疑ったのは、出したあとだった。

あの4日間がなかったら、同じ結論を書いたか。


書いた、と言い切れなかった。

言い切れないまま出して、部長は読んで、承認した。

承認したからといって話が終わるわけではない。

決めるのは東京の別の部屋で、三好の報告書はその机に積まれた紙の一枚でしかない。


次の期から、三好はこの案件の担当を外れた。

異動ではない。

担当の組み替えで、この会社では毎年ある。

あの話がどう決まったのかを、三好が知る立場ではなくなった。

調べようと思えば調べられる。

調べなかった。


佐伯からも、リンからも、連絡はない。

来る理由がない。



半年ほど経ったころ、別の国の空港の免税店で、

フィンが箱に入って並んでいるのを見た。


最後の朝に3人で落ちるのを待った、あの金属の筒だ。

土産物用の、使うことを想定していない造りだった。

三好は手に取って、値段を見て、棚に戻した。

それだけだ。



人は、心にもないことを言って生きている。

リンは訳すたびに角を落とし、佐伯には「はい」と言い、三好には礼を言った。

三好は会議室で数字を並べ、報告書に理屈を並べ、あの夜に「わかりました」と言った。


そのほとんどは、嘘ですらない。

心にあることを全部そのまま言っていたら、仕事も、恋も、一日ももたない。

だからみんな削る。削って渡す。

それで世の中は回っている。


ただ、あの車の中で、あの女は一度だけ削らなかった。

大丈夫じゃないです、と言った。

言われたほうは10秒黙ってから、流れないようにするしかないね、と答えた。

三好が4日間でしたことのうち、意味があったのはそれだけだ。


いいことをしたわけではない。

4日で消える男が、消える前に手を出した。

結果がたまたま、そうなっただけだ。

そして、そのことを知っている人間は、この世に三好しかいない。


この半年のあいだに何度か、ホーチミンはどうでしたか、と聞かれた。

大した出張じゃなかったですよ、と答えた。

暑くて、飯がうまかっただけです、と。

相手は笑って、話はすぐ次の案件に移った。


あの4日は、三好がこれまでに出た出張の中で、

たぶんいちばん何かが起きた4日だ。

何も持ち帰らなかっただけで、何も起きなかったわけではない。


話す相手はいないし、話す日も来ない。

だから三好はこれからも、同じように答える。

大した出張じゃなかったですよ、と。


心にもないことだ。


<完>



Lacàph(ラカフェ)

220A Nguyễn Công Trứ, Nguyễn Thái Bình(旧1区)

狭い入口から階段を上がった先にある、ベトナムコーヒーの体験空間。この国のコーヒーの歴史を、専門のガイドが淹れながら説明してくれる。フィンという金属の筒で落とすので、飲めるまで4分ほど待つ。その4分がこの店の本体だと思っていい。

頼むならバクシウ。グラスの底の練乳にコーヒーを少しだけ落とした甘い一杯で、朝にちょうどいい。毎日7時半から19時半。


タンソンニャット国際空港までの道

市内1区から車で40分ほど。朝夕は1時間を超える。出発階の縁石は3重に車が停まるので、見送りに来てもらっても降りてから別れを惜しむ時間はない。

新しいロンタイン国際空港が南東40キロで建設中、商業運航は2026年後半の予定。




コメント


bottom of page