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彼女が辞めた理由を、俺は聞かなかった [第3話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 4月12日
  • 読了時間: 4分

更新日:4月13日




第3話 「Hotel Nikko、22階」


Tichucaを出たのは、22時を過ぎたころだった。

エレベーターを降りて、T-ONE BUILDINGのエントランスに出ると、スクンビットの夜気が包んできた。

日本の夏よりも、少しだけ重たい空気だ。

湿度が肌に張り付く感じがある。

それでも不快というほどではない。

バンコクの夜の空気には、独特の緩さがある。

東京の夜にはないものだ。


「どっちに帰りますか」とユイが言った。

「Hotel Nikkoの方向です」

「私も、そっちです」

並んで歩き始めた。会話はなかった。

スクンビット通りの喧騒が、二人の沈黙を埋めていた。

バイクタクシーのエンジン音。屋台の油の匂い。

呼び込みの声。タイ語と英語が混ざった音が、夜道に流れていた。

バンコクの夜は、音と匂いで出来ている。

それに慣れてくると、東京の静けさが物足りなくなる。

4回目でもそう感じるんだから、長く住んだらどうなるかわからない。


ユイは横を歩きながら、あまり周囲を見ていなかった。

下を向いているわけではなく、ただ視線が内側に向いていた。

Tichucaで話した内容を、まだ処理しているのかもしれない。

会社を辞めたこと。彼氏と別れたこと。

それをバンコクで初めて会った男に話した。

その事実と、今並んで歩いているこの状況を、整理しようとしているように見えた。

整理しきれていないから、黙っている。


ホテルのエントランスが見えてきたところで、俺は言った。

「部屋に冷えてるやつがあります。よければ」

ユイは少し立ち止まった。3秒か4秒。

その間に、彼女の中で何かが決まった。

迷ったのではなく、確認した。そういう間の取り方だった。

「ちょっとだけなら」

ロビーを抜けて、エレベーターで22階へ上がった。

廊下は静かだった。カードキーを差し込んで、部屋のドアを開けた。


スクンビット方向の窓から、バンコクの夜景が見えた。

Tichucaより低い視点だが、それがかえってリアルだった。

ビルの明かりが、すぐそこにある感じ。

遠景ではなく、この街の中に自分がいるという感覚が、22階の窓からの方が強くある。


冷蔵庫からスパークリングウォーターを二本出した。

ユイは部屋の窓際に立って、外を見ていた。


「ここからも、綺麗ですね」

「Tichucaほどじゃないですけど」

「でも、こっちの方が好きかも」


ユイがそう言って振り返った。

窓を背にして、こちらを見た。

表情が、Tichucaのときよりも少し柔らかかった。

外でなく、室内だからかもしれない。

あるいは、グラスが空になったからかもしれない。


俺はグラスを渡した。

ユイはそれを両手で受け取った。

少し指先が触れた。彼女は視線を逸らさなかった。

距離が縮まるのに、理由はいらなかった。

バンコクに来たのは逃げるためだと彼女は言った。

でも逃げてきた先でこうして夜景を眺めているということは、逃げ切れたということではなく、まだ何かを探しているということだ。

その「何か」が何かを、俺は問わない。問う必要はない。


気づいたら、2時を過ぎていた。

ユイの体は、想像していたよりも細かった。

159センチ、50キロあるかないか。

白いブラウスの下は、思っていたより柔らかかった。

肩から腕にかけての線が細くて、でも腰の丸みがそれと対照をなしていた。

26歳の体は、まだ途中のようなところがある。

整いきっていない、という意味ではなく、まだ変わり続けている、という意味で。

何かを脱ぎ捨ててきた女の体は、少し軽くなっている感じがした。


鎖骨の下に、細い骨の線が浮いていた。

服を着ているときは見えない場所だった。

近づいて初めてわかる、そういう場所にあった。


シーツの上で、ユイは静かだった。

声を出さない女ではなかったが、感情を外に出すことに慣れていない女だった。

こらえる癖がある。

それが、少しずつほぐれていくのがわかった。

ほぐれるたびに、彼女の輪郭が少し変わった気がした。


「リセットできてる気がする」

深夜、ユイが言った。天井を見ながら、静かに。

「会社のこととか、彼氏のこととか。バンコクに来てから、なんか遠くなった気がして」

「いいことじゃないですか」

「そうですね」

それ以上は話さなかった。

翌朝、ユイは7時前に起きた。

俺も目が覚めていた。

着替える音が聞こえた。ベッドの上から、俺はそれを聞いていた。


「商談、頑張ってください」

そう言って、ユイは部屋を出た。ドアが閉まった。

廊下の足音が遠ざかって、聞こえなくなった。

シーツの上に、かすかに香りが残っていた。

何のフレグランスかはわからない。

甘さと清潔さが混ざったような、でも特定できない香りだった。確かにそこにあった。


俺はシャワーを浴びて、スーツを着た。洗面台の鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。

バンコクで何が起きても、朝の鏡の前の顔は変わらない。

それがいいのか悪いのかは、考えないことにしている。

9時の商談に向けて、資料を開いた。

今日やるべきことが、目の前に並んでいた。





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