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彼女が辞めた理由を、俺は聞かなかった [最終話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 4月13日
  • 読了時間: 5分



第4話「一週間と、もう少し」


商談は、うまくいった。

3日間の打ち合わせで、タイ側のパートナーとの合意が取れた。

数字はまだ詰める余地があったが、方向性は固まった。

日本から持ってきた提案書の骨格は変わらなかった。

細部の調整は向こうのペースに合わせる必要があったが、それはいつものことだ。

山田に報告の連絡を入れると「お疲れ様でした、あとは任せてください」と返ってきた。

そういう頼り方ができる部下がいると、出張の後半が楽になる。

信頼できる部下がひとりいれば、出張の質が変わる。


バンコクにいる間、ユイと3回会った。

2回目は、商談が終わった翌日の夜だった。

彼女から「スクンビットに安くて美味しいタイ料理の店を見つけた」と連絡が来た。

テーブルが4つしかない、路地裏の食堂だった。

プラスチックの椅子に、ラミネートのメニュー。

観光客は誰もいない。パッタイが120バーツ。グリーンカレーが150バーツ。

旅慣れていないはずのユイが、一日で見つけてきた店だった。

食堂のおばさんがタイ語で何か言いながら、勝手に料理を持ってきた。

ユイは「たぶん、今日のおすすめだと思う」と言って、出てきた皿を受け取った。

その対応が、初めてバンコクに来た人間のものには見えなかった。


3回目は、俺が帰国する前日だった。

ユイの方から「最後にどこか行きませんか」と連絡が来た。

夜のチャオプラヤー川沿いを、二人で歩いた。

観光客向けのライトアップクルーズが川を行き来していた。

川風が、バンコクの夜にしては少し涼しかった。

岸辺の屋台で、コーンを買った。

ユイはそれをゆっくり食べながら、川を眺めていた。

特別なことは何もなかった。

でも、悪くなかった。Tichucaの夜より、こっちの方が彼女の素の顔に近かった気がする。


帰国した。

成田に着いて、電車に乗った。

東京の景色が窓の外を流れた。

バンコクとは違う空気。密度が高くて、整然としていて、どこか息が詰まる。

この感覚は、アジアから帰るたびにある。

最初の3日くらいで消えるが、消えるたびに少しずつ薄くなっていく気がする。

いつか消えなくなる日が来るかもしれない。そうなったらどうするかは、まだ考えていない。


仕事に戻った。

山田の報告を聞いて、次の案件の資料を確認して、会議に出て、また資料を確認した。

バンコクでのことが、少しずつ遠くなっていった。

ユイのことも、一週間も経てば輪郭がぼやけてくる。

それが自然なことだと思っている。

遠くなることを引き留めようとしない。

無理に近くに置こうとすると、形が歪む。


2週間が経ったころ、ユイからLINEが届いた。

「まだバンコクにいます」

それだけだった。俺は「そうですか」と返した。

少し間があって、また届いた。

「なんとなく、まだいたいから」

俺は画面を見た。


なんとなく。

Tichucaでも彼女はその言葉を使っていた。

バンコクを選んだ理由も「なんとなく」。

まだいる理由も「なんとなく」。

理由を言語化しない女だ。

でも、言語化できないほど深いところに理由がある女でもある。

「なんとなく」という言葉の後ろには、言葉にしたら壊れてしまうようなものが、いつも詰まっている。


「バンコク、合ってるんじゃないですか」

そう返した。

「かもしれないです」とユイが返してきた。


それ以降も、ときどきLINEが来た。

「今日はチャトゥチャック市場に行った」「タイ語、少し覚えた」「ムエタイを見てきた」「スクンビットの外れに美味しいカオマンガイの店を見つけた」。

日記のような、報告のような内容だった。

バンコクにいる時間が長くなるほど、彼女の行動範囲が広がっているのがわかった。

最初は観光客が行くような場所だったのが、少しずつ地元に近い場所に変わっていった。

逃げてきたつもりが、気づいたら根を張りかけている。

そういう人間をバンコクは作る。

この街には、そういう力がある。

俺は短く返した。読んでいる、ということだけ伝わればよかった。


ある日を境に、連絡が止まった。

説明はなかった。「帰ります」もなかった。ただ、ある日から届かなくなった。

俺は追わなかった。

彼女が辞めた理由を、俺は聞かなかった。


会社を辞めた理由も。彼氏と別れた理由も。バンコクに来た本当の理由も。連絡が止まった理由も。

何も聞かなかった。

聞こうと思わなかったのか、聞かない方がいいと判断したのかも、自分でははっきりわからない。

ただ、聞かなかった。


聞く必要がある問いと、聞かなくていい問いがある。

人との時間には、言葉にしなくていいことが存在する。

むしろ言葉にしない方が、その時間がきちんと残る。


あのTichucaの夜から、Hotel Nikkoの翌朝まで。

チャオプラヤー川沿いの、コーンを買っただけの夜まで。

それで十分だったということを、俺は知っている。


彼女が辞めた理由を、俺は聞かなかった。

たぶん、そういうことだと思っている。



<完>


■ Tichuca Rooftop Bar

住所:T-ONE BUILDING, 8 Sukhumvit 40, Khlong Toei, Bangkok

階層:46階(40階でエレベーター乗り換え)

営業時間:17:00〜24:00(要確認)

予算目安:カクテル400〜600バーツ、フード500〜800バーツ

予約:公式サイトまたはGoogle経由で事前予約推奨 アクセス:BTSプロンポン駅またはトンロー駅から徒歩10〜15分


■ Hotel Nikko Bangkok

住所:27 Sukhumvit 55 (Thonglor), Khlong Toei Nuea, Bangkok

客室数:247室

チェックイン:15:00 / チェックアウト:12:00

アクセス:BTSトンロー駅から徒歩約5分

公式サイト:www.hotelnikkobangkok.com

備考:日系ホテルならではの丁寧なサービスと清潔感。スクンビット・トンロー周辺の飲食店へのアクセスが良く、出張・観光どちらにも使いやすい。


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