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夜明けまで強がらなくていい [第3話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 7月12日
  • 読了時間: 6分



【第3話】 翡翠の鎧


「暇?」

三文字だった。

時刻は午前十一時。

ホテルのロビーでコーヒーを飲んでいた俺のスマホに、ゴックからLINEが届いた。

「暇じゃないけど、暇にできる」

そう返すと、十五分後にホテルの前にゴックが現れた。


ノースリーブのロングワンピース、サングラス、小さなショルダーバッグ。

昨日と一昨日の格好より、今日は少し軽い。

「案内してあげる」と言った。


「どこへ?」

「タイ湖。行ったことある?」

「ない」

「何度もハノイに来てるのに?」

「仕事で来ていたから」

ゴックはサングラスの奥で目を細めた。

「……もったいない」と呟いた。

責めているわけではなかった。

ただ、わずかに惜しそうだった。


先に昼を食べようとゴックが言った。

連れて行かれたのは旧市街の路地にある屋台だった。



Bánh mì Hùng。

石畳の路上に三テーブルだけ並んでいて、厨房は窓口のようなカウンターだけだ。

バイクが通るたびに排気ガスが混じるような場所だった。


「ここ、観光客は絶対来ない場所じゃないですか」

「だから連れてきた」

「なんで俺を?」

「……べつに。ちょうど暇だっただけ」

俺は席に座った。

バインミー・スペシャルを二つ頼んだ。35,000VND。日本円で二百円ほど。

バゲットに叉焼と鶏の肝ペースト、なますとハーブを詰めたものが出てきた。

一口食べると、バゲットの外がパリパリで中は蒸されたようにもちもちしていて、

肝の香りと野菜の酸味が混ざり合う。

この組み合わせは店によって全然違う。

ここは、全部の主張が喧嘩しない。


ゴックが一口食べた。

しばらく無言だった。

「……うまい」とゴックが言った。

「でしょ」

「でも、汚い」

「うまい方が優先する」と三好は言った。


ゴックはもう一口食べた。

何も言わなかったが、サングラスを外した。

「べつに。眩しくないだけ」

小さく言った。

三好は何も言わなかった。

食べながら、ゴックが言った。


「先週ドバイで、王族の人と飲んだんだけど」

「楽しかったですか」

「……まあ、普通」

「それ楽しくなかったやつですね」

ゴックがこちらを見た。

「なんでわかるの」

「楽しかったら『普通』って言わないから」


ゴックはバインミーを一口食べた。

しばらく黙った。

「……あなた、普通の商社マンじゃないわよね」

「普通の商社マンです」

「そういう言い方をする普通の商社マンはいない」


屋台を出た。

歩きながら、ゴックが「ホアンキエム湖、行く?」と言った。

ホアンキエム湖の周りを歩いた。

亀の塔が湖の中心に浮かんでいる。

観光客がスマホを向けていた。

ゴックが「ハノイの何が好きなの」と聞いた。


「人が多いところ」

「それって、嫌いってこと?」

「それだけ生きている場所ってこと」

ゴックは前を向いたまま黙っていた。

それから、ちゃんと笑った。

昨日の、わずかに崩れた笑いじゃなく、口元が動いた笑いだ。

気づいたように前を向いた。


「……べつに、面白くない」

「笑ってましたよ」

「笑ってない」

「そうですか」

三好は答えなかった。

ゴックは少し早歩きになった。


少し歩いてから、ゴックが言った。

「私ってなんであんな感じの男ばっかり引き寄せるんだろ」

「引き寄せてるんじゃなくて、選んでるんですよ」

「……同じじゃん」

「違いますよ。選んでるなら、変えられる」

ゴックは何も言わなかった。

反論もしなかった。

正しいから、言葉が来ない。


しばらくして、前を向いたまま小さく言った。

「……本当に嫌い、こういう人」

「どんな人ですか」

「黙らせる人」

三好は何も言わなかった。

湖畔のカフェに入った。

ベトナムアイスコーヒーを頼んだ。

ゴックはレモネードを頼んだ。


「あなたって、彼女いるの?」

「今は、いない」

「なんで?」

「仕事が長すぎる。ついてきてくれる人がいない」

「ハノイに女でもいるの?」

「昨日まではいなかった」

ゴックがストローを持ったまま止まった。

数秒あって、目を伏せた。


「うまいこと言う人ね」

「本当のことしか言っていません」

しばらく沈黙が続いた。

ゴックがグラスを置いて、何でもない顔で言った。


「私、ビジネスクラスしか乗らないんだよね」

「最初からですか」

「……最初は違うけど」

「それで今ファーストクラス担当か。筋道が通ってる」

「……そうよ。国際線ファーストクラス、普通のCAが全員なれるわけじゃない」

「選ばれるのは大変だったんじゃないですか」

「……頑張ったよ」

「それ、いいじゃないですか」


ゴックは少し間を置いた。

「すごいですね」でも「偉いですね」でもなく

「いいじゃないですか」という返し方を、今まで誰もしなかった、という顔だった。


タイ湖へ向かう途中、ゴックが聞いた。

「スターアライアンスダイヤモンドって、本当に持ってるの?」

「ええ」

「年間何マイル乗るの?」

「数えてないですよ」

「嘘。ダイヤモンド持ってて数えてない人、いない」

「あなたは数えてるんですか」

「私はCAだから違う。乗せる側だから」

「乗る側も乗られる側も、空が職場ですね」

ゴックが少し黙った。


「……どこの路線が好き?」

「ハノイが増えましたよ、最近」

ゴックが前を向いたまま、ゆっくり歩いた。

何も言わなかった。


「日本人ってベトナム人の名前覚えられないでしょ。だからVivianにしてる」

「Ngọcの方が覚えやすいですよ、俺には」

「……なんで知ってるの」

「最初にミンさんが呼んでましたよ」

ゴックが黙った。

返す言葉を探しているのか、探すのをやめたのかわからなかった。


タイ湖(Hồ Tây)についたのは、陽が傾きかけていた頃だった。

ハノイ最大の湖だ。

ホアンキエム湖の観光地的な賑わいと違って、ここは少し静かだ。

湖沿いに古い飲食店が並んでいて、地元の人間が夕暮れを過ごす場所だ。


二人で並んで欄干にもたれた。

湖の向こうに日が傾いていた。

「Ngọcって、どういう意味ですか」

ゴックが少し間を置いた。

「……なんで急に本名で」

「そっちがあなたらしい気がして」

「……翡翠。宝石の名前」

「翡翠か」


その一言しか言わなかった。

ゴックは湖を見ていた。

夕暮れが水面を橙色に染めていた。


ゴックは欄干から手を離して、俺を見た。

「帰ろうか」

ゴックのアパートは、タイ湖から十分ほど歩いたところにあった。

古いコンドミニアムの三階。

エレベーターはなかった。

階段を上りながら、俺は何も言わなかった。

ゴックも何も言わなかった。


扉の前に着いた。

ゴックが鍵を取り出した。

錠前に鍵を差した。

振り返った。

「入って」

それだけだった。



【次話予告】

翌朝、隣で眠るNgọcの横顔を見た。




Bánh mì Hùng(バインミー・フン) / 基本情報

Phố Huế, Hai Bà Trưng, Hà Nội / 路上バインミー屋台。

35,000VND(約200円)。

地元民の昼飯代表。汚いがうまい。バインミー・スペシャル一択。

Hồ Tây(タイ湖) / 基本情報

Tây Hồ, Hà Nội / ハノイ最大の湖。

観光地化されておらず、地元の夕暮れの場所。

ホアンキエム湖の喧騒から離れたい時に。夕方がいい。



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