夜明けまで強がらなくていい [最終話]
- GENPASS 編集 三好

- 7月13日
- 読了時間: 5分

【最終話】 夜明けまで強がらなくていい
扉が開いた。
部屋は暗かった。
ゴックが先に入って、小さな間接照明だけをつけた。
窓の外にタイ湖の黒い水面が見えた。
「飲む?」と聞かれた。
「いらない」と答えた。
ゴックは振り返らずに言った。
「べつに、今夜だけだから」
橙色の明かりの中で、こちらを向かないまま言った。
強がりだった。
でも強がりにしては、声が少しだけ静かだった。
「わかりました」
それ以外は何も言わなかった。
ワンピースの下のNgọcは、思ったより素直だった。
165センチ、52キロ。
昼間から想像していた輪郭が、暗い部屋の中で全部本物になった。
細身の体に、重力に逆らうような均整がある。
鎖骨から腰、膝から足首まで、削り出した翡翠のような細さと強さが同居していた。
細いのに、どこも省略されていない。
均整というより、全部が主張をやめない体だった。
「べつに、今夜だけだから」と言った女が、この部屋の中でもう一度もそれを言わなかった。
強がりは、扉の外に置いてきたらしかった。
高飛車なCAじゃない。
VIPラウンジの話をする女じゃない。
ただの二十六歳のNgọcが、そこにいた。
鎧を、全部脱いだ。
翡翠というのは、石の話だ。
削ると、中の色が出てくる。
削られることを嫌がる石ほど、中の色が深い。
三日間かけて削った。
出てきた色は思ったより深かった。
気づいたら深夜だった。
眠れなかった。
窓の外が少しずつ明るくなり始めた時間、ゴックはまだ起きていた。
俺の横に寝たまま、窓の外を見ていた。
「眠れないの?」
「……うん」
「何か考えてる?」
「何も」
それは嘘だった。
うっすらとわかった。
何も考えていない人間の目ではなかった。
ゴックは俺の腕を、少し強く握った。
放す素振りを見せないまま、でも放してほしくないとも言わなかった。
高飛車な女が、ここだけは正直だった。
そのことに気づかないふりをした。
気づいているとわかったら、ゴックはまた何か言うだろうから。
今夜は、言わせなかった。
ゴックは何も言わなかった。
腕を握ったまま、窓の外を見ていた。
Vivianじゃなく、Ngọcの顔をしていた。
「夜明けまで強がらなくていい」
俺が言うと、ゴックは黙った。
しばらく何も言わなかった。
「……強がってない」
「そう」
「強がってないって言ってる」
「わかった」
ゴックは俺の腕を放さなかった。
窓の外が白くなり始めた。
白むのを二人で見ていた。
ゴックは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
翌朝、隣で眠るNgọcの横顔を見た。
鎧を脱いだ顔だった。
起こそうとは思わなかった。
ただ、俺だけが知っている顔だと思った。
初めて、「ゴック」と心の中で呼んだ気がした。
「Vivian」じゃなく。
ベトナム語の発音はまだうまくできない。
でも、その名前はもう「Vivian」じゃなかった。
起こさないように服を取った。
メモを書こうとして、やめた。
LINEに「また飯でも」とだけ送った。
ホテルに戻ってシャワーを浴びてスーツを着た。
午後のフライトでハノイを出た。
スターアライアンスのラウンジで、ゴックと同じ航空会社のCAとすれ違った。
制服を見た瞬間、ゴックの顔が浮かんだ。
それだけだった。
離陸した。
ハノイの灯りが遠くなった。
数日後、ミンからLINEが届いた。
「ゴックと会えた?」
俺は既読をつけた。
返信のしかたを考えた。
そのまま、ロックをかけた。
ゴックが東京にいたことを、俺は知らない。
—— 同じ夜、東京の空の下。
Ngọcが成田空港に降り立ったのは、三好がハノイを発って十日後のことだった。
VinFastの日本法人設立に向けた打ち合わせ。
それが出張の名目だった。
ミン経由で話が来たとき、Ngọcは一瞬止まった。
東京、という言葉のせいだったかどうかは、彼女自身にもわからない。
都心に向かうタクシーの窓から、東京の夜景が流れた。
首都高の上から見る光の密度は、ハノイとは全然違う。
ビルが詰まって光っている。
ネオンの色が違う。
ここは三好の街だ、と思った。
ホテルにチェックインして、シャワーを浴びた。
眠れなかった。
連絡すればいいとわかっていた。
「東京に来てる」の一言で、全部が動く。
でも、その一言が出てこなかった。
ここがアウェイだからか、それとも別の理由があるのか、Ngọcにはわからなかった。
深夜、部屋でNgọcはスマホを持っていた。
LINEを開いた。
「また飯でも」という一言が、画面の中に残っていた。
「東京に来てる」と打ちかけた。消した。
「今どこにいるの」と打ちかけた。消した。
何も送れなかった。
スマホをベッドに置いた。
また持ち上げた。
また開いた。
また閉じた。
ハノイでは自分の部屋があった。
自分が先に「入って」と言えた。
でも東京では、Ngọcの方がアウェイだ。
そしてそのことが、こんなに息苦しいとは思っていなかった。
ハノイのあの夜、「べつに今夜だけだから」と言った。
他に言葉がなかった。
それしか言えなかった。
窓の外が少しずつ、白んでいった。
東京の夜明けだった。
ハノイで聞いた言葉が、耳の中にあった。
——夜明けまで強がらなくていい。
夜明けまで、強がった。
<完>

スターアライアンスラウンジ(ノイバイ国際空港) / 基本情報
Terminal 2, Noi Bai International Airport, Hà Nội / ANA・ユナイテッド等スターアライアンス上級会員(ゴールド以上)利用可。
ハノイ出国前の最後の時間に。




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