top of page

夜明けまで強がらなくていい [第2話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 7月11日
  • 読了時間: 5分



【第2話】 腹、減ってますよね


翌日の午後、俺は旧市街を歩いていた。

午前中のVinFastとの継続打ち合わせが終わって、

ホテルに戻るより先にホアンキエム湖の周りを一周したくなった。

ハノイに来るたびにそうする。理由はない。

ただ、この都市はバイクの波に押し込まれながら歩くのが一番落ち着く。


カフェの前に、見覚えのある脚があった。

ゴックだった。

白いワンピースに、黒いパンプス。

昨日より少し明るい格好だ。

その前に、スーツを着た欧米系の男が立っていた。

五十代半ば、体格がいい、腕時計が光っている。

男がゴックの腕を掴もうとした。

ゴックは一歩引いた。

それだけだった。


俺は止まった。

介入はしなかった。

する必要があるとは思えなかった。

男がまた何か言う。

ゴックは動じない。

完璧に動じていない。

低い声で何かを言った。

男がわずかに後退した。

もう一言、ゴックが言った。

男は去った。


ゴックは男が去った方向を一瞬だけ見ていた。

それから振り返った。

目が合った。


「……見てたの?」

「見てた」

「助けなかった?」

「必要なさそうだったから」

ゴックは少し考えるような顔をした。

怒っているわけでもない。

でも何かが崩れたような気がした。


三好は言った。「……腹、減ってますよね」


Madame Hienは、ホアンキエム湖から西へ二十分ほど走ったところにある。

ホアン・ジウ通りの古いコロニアル建築。

緑の庭木に囲まれた木造の外観は、昼間でも薄暗く、中に入ると風が通っていた。

テラス席を選んだ。

石畳の上に籐の椅子が並んでいる。

ベトナム南部スタイルの内装で、照明は控えめだ。

この店を使うのは、ハノイ在住の外国人ビジネスマンか、地元の食通だ。

観光客向けではない。


「ここ知ってたの?」とゴックが聞いた。

「来たことがある。三年ほど前に」

「誰と?」

「相手が変わっただけで、店は変わっていない」

ゴックは少しだけ笑った。

本当に少し、だけど。


チャーカーを頼んだ。

ターメリック漬けの白身魚を鉄板の上で炒めたものが、ライスバーミセリとともに運ばれてきた。

テーブルの上でジュッと音を立てた瞬間に、ターメリックとディルの香りが立ち上る。

皮はしっかり揚がっていて、でも魚の身はやわらかい。

外は香ばしく、中は繊細だ。280,000VND。

この値段で食べられる料理としては、ハノイで指折りだと思っている。


席についた瞬間、ゴックが先制してきた。

「私のことかわいそうだと思ったでしょ」

「思ってないですよ」

「嘘つかないで」

「あなたが一番、かわいそうだと思ってほしそうでしたよ」


テーブルが少しだけ静かになった。

ゴックは何も言わなかった。

口元が動いたが、言葉が出なかった。

今まで誰もこんな返し方をしなかった、という顔だった。

口火を切ろうとして、切れなかった。

その数秒が、全部だった。


料理が来てから、ゴックが口を開いた。

「だいたいにして、さっきのあいつ金しか持ってないくせに偉そうでさ。友達の紹介だったんだけど、その友達もどうかと思うし。私のどこが悪いの?普通に待ってただけじゃん」

三好は黙って聞いていた。

ワインを一口飲んだ。


「ねー、聞いてるの?」

「聞いてますよ」

「じゃあ何か言ってよ」

少し間を置いてから俺は言った。

「金で人を選んだら、金しか見ない男しか残らないですよ」

ゴックが固まった。

反論しようとして、できなかった。

正しいから。


しばらく間があって、ゴックが初めて小さい声で言った。

「……じゃあ何で選べばいいの」

俺は答えなかった。

料理に箸を向けながら「さあ」とだけ言った。


食事が落ち着いた頃、もう一度だけ聞いた。

「今まで金以外で選ぼうとしたことが、あったんですか?」

ゴックが答えなかった。

テーブルの上に目を落として、何かを考えているような、考えることをやめているような沈黙だった。


「そうですよね」

とだけ言って、ワインを飲んだ。

責めていない。

ただ事実を言っている。

それがゴックには一番刺さるのだということが、その表情でわかった。

しばらく、テーブルに音がなかった。


会計のとき、俺が財布を取り出した。

ゴックの目が止まった。

財布の中の、黒いカード。

ANAダイヤモンド会員証。

黒地に金文字。

スターアライアンスの最上位ランク。

ベトナム航空もスターアライアンス加盟だ。

このカードが何を意味するか、CAなら一秒でわかる。

さっきまで「貧乏そう」と思っていた男が持っているカードじゃない。


何も言わなかった。

ただ、目が離せなかった。

席を立ったとき、ゴックが「……ごちそうさま」と言った。

さっきまでの声と、少し違った。


店を出て、通りに立ったところでゴックが前を向いたまま言った。

「……言っとくけど、連絡するかどうかわからないから」

スマホを差し出しながら。

「別に構いませんよ」

サラッと受け取って、番号を入れて返した。


「Vivianって入れといて」

そのまま「Vivian」と入力して渡した。

ゴックの画面には「三好」とだけ入っていた。

ゴックはスマホを受け取って、画面を確認した。

何も言わなかった。

それだけだった。


翌朝、スマホに「暇?」と届いていた。



【次話予告】

「暇?」の三文字が、思ったより長い一日になった。




Madame Hien(マダム・ヒエン) / 基本情報

15 Chân Cầm, Hoàn Kiếm, Hà Nội / ベトナム料理の上質版。

旧市街外れの緑に囲まれたコロニアル建築。

外国人ビジネスマン御用達の隠れ家。

チャーカー 280,000VND〜。



コメント


bottom of page