夜明けまで強がらなくていい [第1話/全4話]
- GENPASS 編集 三好

- 7月10日
- 読了時間: 5分

【第1話】Vivianと呼べ
ハノイには、何度来ても慣れない。
バイクの流れは法則なく交差し、クラクションが重なり、
揚げ油と排気ガスが混じった熱い空気が路面から立ち上る。
六月の午後は、空港を出た瞬間に汗をかく。
それでもこの都市は生きている。
そこが好きで嫌いだ。
タクシーがミーディン地区に入ると、VinFastの新しいビルが見えた。
ベトナム初の国産EVメーカーだ。
一年半前から代理店契約の交渉をしていた。
今回のハノイ出張は、その最終調整だった。
ロビーで待っていたのが、ミン・ティ・ハだった。
「三好さん、ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
黒のパンツスーツ、ショートカット、丁寧に選ばれた笑顔。三十二歳。
VinFastのキーアカウントマネージャーで、商談相手としてはとても優秀だったが、この日の議題は少し難しかった。
EVバッテリーの保証範囲をめぐる条件で、先方の法務部門が難色を示していた。
「欧米向けの基準を日本市場に適用することは困難だ」という主張で、
ミンが通訳しながら双方の顔色をうかがっていた。
議論が煮詰まってきたところで俺は口を開いた。
「保証範囲を絞るなら、代わりに日本市場でのPRを一緒にやる条件を付けてもいいと思っています。
VinFastが来年の東京モーターショーに出展するとき、うちを窓口にする話を書面にする」
ミンが通訳した。先方の法務担当が顔を上げた。
「保証の問題は保険でカバーできます。でも日本市場の入口は、そう簡単には作れない。そこを一緒にやろうということです」
会議室が少しだけ静かになった。
その夜の食事は、ミンが設定してくれた。
ソフィテル・レジャンド・メトロポール。
ホアンキエム湖畔に立つ、1901年建造の白いホテルだ。
フランス植民地時代の木製コンソールテーブル、シャンデリア、白いテーブルクロスのレストラン「ル・ボーリュー」。
ハノイでビジネス会食をするとき、相手に「この人は分かっている」と伝えるための店だ。
「今日は本当に助かりました。三好さんが来てくれると全然違います」
「詰めが甘かった。日本市場のPRは本音だが、先に具体的な条件を出しすぎた」
「それでも前に進めた」とミンは言った。
フォワグラのテリーヌが運ばれてきた。
ライチのコンポートを添えたものだった。
口に入れると滑らかな脂とほのかな甘みが広がって、
熱帯の夜の空気にしては不思議なほどすっきりした後味が残る。580,000VND。
ハノイでこれを出せる店は多くない。
ワインはシャブリを選んだ。
ミンがグラスを傾けたとき、店の入口が開いた。
「あ、ゴック!」
ミンが手を振った。
振り返ると、女が歩いてきた。
長い。
足が長いというより、体全体が縦に伸びているように見えた。
白いシルクのブラウス、黒のクロップドパンツ。
薄いシルクの下で胸の輪郭がわかった。
歩くたびにわかった。
顔立ちは彫刻的で、メイクが濃いわけでもないのにパーツ一つひとつが主張していた。
推定165センチ。52キロあるかないか。
あらゆるところが均整が取れているというより、重力に逆らっているような体つきだった。
「Ngọcよ。Vivianって呼んで」
テーブルについて最初に彼女が言ったのが、それだった。英語だった。
日本語で話していた俺に向かって、なぜか英語で言いなおした。
ミンが「Ngọc(ゴック)というベトナム語の名前ですが、
本人は英語名のVivianを使いたがってるんですよ」と通訳してくれた。
当の本人はすでにスマホを取り出していた。
「見て」とゴックが言った。
ミンに向けて、でも俺にも見えるように画面を差し出した。
砂漠の滑走路。白いプライベートジェット。革張りのシート。
「先月ドバイ行ったとき、知り合いに乗せてもらった」
次の写真は、バンコクのラウンジだった。
ゴックの隣に、端正な顔立ちの男がいた。
「この人、タイの俳優。向こうから話しかけてきた」
ミンが「すごい」と言った。
俺はワインを飲んだ。
「チャンギのラウンジも改装してたし、マニラのリッツも——」
話が続いた。
ビジネスクラスの座席。
VIPラウンジのシャワールーム。
どこかのパーティで手渡された名刺。
自分自身の話が一つも出てこない。
全部、鎧の話だ、と思った。
「私ね」とゴックは言った。
「普通の人と話すの退屈なの」
悪気はなかった。
それが一番始末に負えなかった。
俺はあくびが出そうになるのをこらえた。
「少し失礼します」
ナプキンをテーブルに置いて、席を立った。
俺がトイレに立った後、ゴックがミンに言ったらしい。
「ミン、なんであんな貧乏そうな人と食事してるの」
「あの人ね、仕事で私が本当に困ってたときに助けてくれた人なの。いい人なんだよ」
「……それ、あなたが女として狙われてるだけでしょ」
ミンが苦笑した。
それ以上は何も言わなかった、とのことだった。
戻ってきたとき、ゴックがこちらを見ていた。
「ひとつ聞いていいですか」
テーブルについてから俺は言った。
ゴックが目を上げた。
「今話してくれたこと、全部誰かのお金ですよね」
テーブルが静かになった。ミンが固まった。
ゴックは俺を見た。
怒りでも驚きでもなく、何かを見定めるような目だった。
「……そうね。そういう仕事だから」
「いい仕事だと思います。ただ」
「ただ?」
「ラウンジの話より、あなた自身の話が聞きたかった」
ゴックはその夜、俺を一度も褒めなかった。
ミンを通じて後で聞いたのは、
帰りのタクシーの中で彼女が「あの人、面白い」と言っていたということだ。
ただし、その言葉がどういう意味だったのかは、ミンも教えてくれなかった。
【次話予告】
翌日の午後、俺は見てしまった。
ゴックが、男に詰め寄られていた。

Le Beaulieu(ル・ボーリュー) / 基本情報
Sofitel Legend Metropole Hanoi内 / 15 Ngô Quyền, Hoàn Kiếm, Hà Nội / ハノイ最高峰のフレンチレストラン。
1901年建造のコロニアルホテル内。
ビジネス会食に最適。要予約。フォワグラのテリーヌ 580,000VND〜。




![夜明けまで強がらなくていい [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_a5feea3df1674f2db836d786a249df4a~mv2.png/v1/fill/w_980,h_653,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_a5feea3df1674f2db836d786a249df4a~mv2.png)
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