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全部、夢のまま  [第1話 / 全4話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 7月17日
  • 読了時間: 4分

更新日:7 日前




【第1話】 Reyes家の娘


マニラには、何度来ても同じ重さで迎えられる。

ニノイ・アキノ国際空港を出た瞬間、湿気が全身に貼りつく。

南国の蒸し暑さに慣れているつもりでいても、マニラのそれはバンコクともジャカルタとも違う。

人の密度と、古いディーゼルの排気と、どこか遠くから漂う金の匂いが溶け合った空気が、街全体を低く覆っている。

それがこの街だ。好きでも嫌いでもない。

ただ毎回、同じ感触で体に入ってくる。


マニラは3度目だった。

自動車関連の商談。

日系メーカーのEV展開に向けた、フィリピン大手ディーラーグループとのサプライチェーン再設計が担当だ。

数ヶ月、先方の意思決定が動かない状態が続いていた。

キーマンがリスクを嫌がっている。

その逃げ道を塞ぐ形で、今週中に決着をつける。

そのつもりでマニラに入った。


チェックインしたのはRaffles Makati。

マカティのアヤラ・センターに隣接する、白いファサードが遠くから目立つホテルだ。

先方が手配してくれた。

翌日の本商談に備えて、前日の今夜、ホテルで開かれるチャリティーガラに顔を出す約束があった。

こういう席での根回しが、翌日の交渉を一段楽にすることがある。

これもマニラでの仕事の一部だ。


夜8時。グランドボールルームは満員だった。

マカティの財閥関係者、欧米のビジネスマン、外交団。

ブラックタイのドレスコードで、シャンパングラスが行き交っていた。

俺は商談相手への挨拶を手早く済ませながら、会場を流した。

こういう場には慣れている。

誰と話す必要があり、誰とは話さなくていいか。

遠目でだいたいわかる。

それだけでいい。


彼女を見たのは、会場の奥の円卓だった。

白いガウン、肩の出たデザイン。

首筋に細いゴールドのネックレス一本。

黒髪を高く結い上げて、顔の輪郭を際立たせていた。

肌は明るく、東南アジア系と中国系が混ざったような繊細な骨格をしていた。

推定28〜29歳。

テーブルを囲む一団の中に座って、正確な笑顔を向け続けていた。


その笑顔に、何か足りないものがあった。

目が笑っていない、という話ではない。

もっと細かいことだ。

どのタイミングで口角を上げるか、誰に向けて頷くか、すべてが計算されていた。

場慣れした人間の自然な振る舞いじゃなく、そうしなければならないと教わった人間の動き方だ。

着ているガウンも、纏っている笑顔も、全部この席のための衣装に見えた。


ときどき目が止まった。

会話の相手を見ながら、本当には別のどこかを見ているような目だ。

この会場の外に何かがある、という顔だった。

視線が自分のテーブルに戻るたびに、少しだけ丁寧すぎる角度で頷く。

相手の話を聞いている、という体裁を完璧に整えた上で、本当には聞いていない。

そういう技術を、この女は子供の頃から磨いてきたんだろうと思った。

仕事関係の家族だろうと判断した。

グラスを空にして、会場を出た。



ホテルのバーに入ったのは、9時過ぎだった。

The Bar。Rafflesの一階にある小さな空間で、濃い木のカウンターと低い照明が特徴だ。

グランドボールルームの喧騒と同じホテルにあるとは思えない静けさがある。

ウイスキーを頼んで、カウンターに腰を落ち着けた。

マニラの夜は、こういう場所で飲むのが一番落ち着く。


15分ほど経った頃、隣の椅子に人が滑り込んできた。

さっきボールルームで見た女だった。

白いガウンのまま、少し息が上がっていた。

入口の方向を素早く一度確認してから前を向いた。

低い声で英語を言った。


「すみません。隣に座っている人という感じにしてもらえますか。数分だけでいいので」


俺は答えなかった。

バーテンダーに向き直って、彼女のグラスも一緒に頼んだ。

2分ほどして、入口から年配の男が入ってきた。

60代、スーツ、財閥系の重役風だ。

バーを見渡して、こちらに一瞬目が止まった。

それから奥の席に向かっていった。


男が通り過ぎた。彼女が小さく息を吐いた。

「ありがとうございます」

俺は何も言わなかった。

グラスを口に運びながら、前を向いたまま座っていた。

彼女も黙っていた。


同じカウンターで、別々のことを考えているような静けさだった。

しばらくして、彼女のスマホが震えた。

画面を確認した彼女の表情が、ごくわずかに変わった。

"Fiancé"と表示されているのが見えた。


彼女はスマホをカウンターに伏せた。

沈黙が続いた。

音楽だけが、静かに流れていた。

「……見てましたよね」

「……少し」



【次話予告】 

「……少し、か」と彼女が繰り返した。

それから少し笑った。その夜の話は、もう少し続いた。

夜が終わる前に、LINEを交換した。

翌朝、BGCのレストランで、彼女の顔が変わった。

ガラのときの笑顔とは、何もかも違う顔だった。




Raffles Makati / 基本情報

1 Raffles Drive, Makati Avenue, Makati City / マカティ中心部、アヤラ・センター隣接。

フィリピン最高峰のラグジュアリーホテル。

グランドボールルームは財閥系ガラの定番会場。

The Barはホテル1階のウイスキーバー。

照明が低く静かで、一人でも二人でも使える。深夜でも品がある。



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