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全部、夢のまま  [第2話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 7月18日
  • 読了時間: 6分

更新日:6 日前




【第2話】 ベラ


バーはまだ静かだった。

「……少し、か」と彼女が繰り返した。

少し笑った。

「スマホの画面のことです。Fiancé、って出てたでしょう」

「ええ」

「見られましたね」

少し間があった。

俺は何も言わなかった。


「さっきの方、家族の古い知人なんです」と彼女が続けた。

「私が婚約していることを知っている人で。一人でバーにいるところを見られたら、父に伝わります」


英語だった。

説明のつもりで言ったのかもしれない。

それとも、言葉にすることで自分でも整理したかったのかもしれない。

俺には説明を聞いた気がしなかった。

そういう理由で行動を制限されている人間の話を、いつも聞いている気がした。


「その話、好きですか」

「え?」

「今あなたが生きている話のことです」

彼女は少し考えた。

「好きかどうかで考えたことがなかったです」

「なぜ」

「決まっていることを好きかどうか考えるのは、時間の無駄な気がして」

「時間の無駄じゃないですよ」

それだけ言った。それ以上は言わなかった。


彼女が俺を見た。

「どうしてそんなことを言うんですか」

「さっきのパーティーで、一番完璧に笑っていた人が一番遠くを見ていたので」

彼女が少し黙った。

「……気づかれていたんですね」

「気づかれたくない人には、気づかれていないと思いますよ」

また沈黙があった。

今夜初めて、この女が少し力を抜いた気がした。


スマホが震えた。

今度は家族のグループ通知らしかった。

彼女が時計を見た。


「もう戻らないといけない」

それから一度だけ俺を見た。

「あなたのLINE、聞いてもいいですか」

俺はQRコードを出した。

彼女がスキャンした。


「Isabella。Isabella Reyes」と彼女は自分の名前を言った。

フルネームを言った。

姓まで言った。

それが礼儀なのか、それとも自分が誰であるかを確認させたかったのかは、わからなかった。


「三好」と俺は言った。

名前だけでいい。

それで十分だった。

彼女は立ち上がって、会場の方向へ歩いていった。



翌朝9時、LINEが届いた。

「昨日の質問、まだ考えてます」

俺は少し待ってから返した。

「夜、食事でもしながら一緒に解決しますか」

既読になって、3分後に返事が来た。

「はい」

待ち合わせはホテルのロビーにした。


彼女は白いリネンのシャツとワイドパンツで来た。

昨日のガウンとは別の女だった。

いや、そうじゃない。

昨日のガウンが別の女だったということだ。

黒髪を下ろして、化粧を薄くして、靴はフラット。

それが本来の形なのだろうと思った。


連れていったのはGallery by Chele。

BGC(ボニファシオ・グローバル・シティ)にある。

マカティの南に隣接して開発された新興ビジネス・商業エリアで、

高層ビルとレストランが整然と並ぶ、マニラの中でもとりわけ洗練された街区だ。

スペイン人シェフがフィリピン料理をヨーロッパの技術で再解釈した店だ。

ギャラリーを模した内装。

壁にアートが並んでいて、照明が暖かく低い。

テーブルの間隔が広い。

こういう場所を選んだのは、会話が聞こえてほしくなかったからではなく、

彼女に食べることだけを考えさせたかったからだ。

Reyes家の娘がどれだけ自分の食欲に正直か、知りたかった。


一品目に出たのは、水牛のチーズをパンダンリーフで包んだひと口だった。

乳のやわらかな甘みが来て、後から南洋植物の青い香りが追いかけてくる。

日本の懐石とも、スペイン料理ともつかない。

素材は完全にフィリピンのものなのに、食べた感覚はどこかバスクに近い。

テイスティングコース₱7,200。

一品目からそれがわかった。


「来るたびに頼む一品です」と俺が言った。

「なぜ毎回同じものを?」

「変えない方が、変わったものがよく見える」

彼女がそれを聞いて黙った。

次のコースが運ばれてくるまで、何も言わなかった。


「マカティとBGCって、普段どちらに?」

「マカティです。実家が。BGCは友人が多い」

「どちらが好きですか」

「BGCの方が、自分に見えます」


なぜかを聞かなかった。

答えはわかっていたから。

マカティは実家がある。

BGCは自分で選べる街だ。

彼女が本当に望んでいる場所はどちらかは、聞くまでもなかった。

言えない理由があるだけで。


食事が進むにつれて、彼女が少しずつ話すようになった。

家族のこと。

フィリピンの名家というものがどういうものか。

結婚という選択肢がいつ、どういう形で自分の前に置かれたか。

聞かれてもいないことを話し始めたとき、人は本当のことを言っている。


「小さい頃から、全部決まってたんです」

と、ふと彼女が言った。

「学校も、仕事も。結婚相手も」

俺は聞いていた。

「今日、ここに来たのは誰が決めたんですか」

彼女が少し止まった。

「……私です」と答えた。


それだけで十分だった。

俺は料理に箸を向けた。

それ以上は言わなかった。


「婚約者のこと、好きですか」

「……それは」

「答えなくていいです」

彼女が少し笑った。

今夜初めて、計算のない笑いだった。


コースが終わる頃に、彼女が聞いた。

「三好さんはいつもこういう場所に女性を連れてくるんですか」

「連れてきたいと思えた人と、来ます」

「それは口説き文句ですか」

「聞こえましたか」

「……聞こえました」 彼女がまた笑った。

今度は少し違う笑い方だった。


店を出たのは10時を過ぎていた。

BGCの夜は明るい。

車が多く、人が多く、どこか東京の湾岸に似た空気がある。

マカティと違って、ここには歴史がない。

全部、新しく作られた街だ。

土地に縛られていない人間が集まる場所だ。

だから彼女はBGCの方が自分に見えると言った。


歩道に出て、配車を呼ぼうとした彼女の前で俺は言った。

「ベラって、呼んでいいですか」

「……イザベラですよ、私」

「イザベラはReyes家の名前な気がして。ベラはあなたの名前な気がして」


彼女が俺を見た。

何か言おうとして、やめた。

配車が来た。彼女が乗り込んだ。

窓から三好を見た。

俺はすでにスマホを取り出していた。



【次話予告】

「ここ、昔は空港だったんですよ」 彼女がそう言ったとき、窓の外にはマカティの高層ビルが並んでいた。

出発のための建物が、今は食事をする場所になっている。

「一度でいいから、自分で決めたことがありますか」

その問いに、彼女はすぐには答えなかった。

夜が深くなるにつれて、ベラが少しずつ変わっていった。




Gallery by Chele / 基本情報

2/F MET Live Podium, 38th Street, Bonifacio Global City, Taguig City

スペイン人シェフChele Gonzálezによるフィリピン現代料理。

ギャラリーを模した空間で、アートと料理が共存する。

テイスティングコース₱7,200〜。BGCで迷ったらまずここ。

要予約。会話したい夜に向いている。



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