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全部、夢のまま  [第3話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 7月19日
  • 読了時間: 5分

更新日:6 日前




【第3話】 帰りたくない


翌朝、LINEが来た。

「ベラでいいですよ」

俺は一言だけ返した。

「わかりました、ベラ」

昼前に「今日の予定は?」と彼女が聞いてきた。


仕事はない日だった。

「なければ一緒に出ませんか」と返した。

「どこへ」と来たので

「あなたが行ったことのない場所」と答えた。

「マニラで?」

「知ってます」

待ち合わせはホテルのロビーにした。


連れていったのはBlackbird。

アヤラ・トライアングル・ガーデンズの一角に立つ、

1937年建造の旧ニールソン空港ターミナルをそのまま使ったレストランだ。

マカティに来るたびに一度は入りたくなる場所がある。


アールデコの高い天井。

木のインテリアと丸窓。

窓の外に現代のマカティの高層ビル群が見える。

かつて滑走路だった場所に、今は高層ビルが並んでいる。

その対比が、この場所のすべてを語っていた。


スモークドサーモンのプレート₱750。

シンプルだが、素材が隠れていない。

食べることが目的じゃない。

空気を食べる場所だ。

かつて人々が出発し、帰ってきた場所。

この建物を設計した人間は、帰ってくる人間のことを考えて設計したんだろうと思う。

その記憶が建物の中にまだ残っている気がした。


「ここ、昔は空港だったんですよ」

ベラが窓の外を見ながら言った。

「知ってました」

「知ってたんですか」

「だからここに来ました」


彼女が俺を見た。

何か聞こうとして、やめた。

それから窓の方に顔を戻して、少し間を置いた。


「帰りたくなったら、空港に来ればよかったんですね」

冗談には聞こえなかった。

俺はその言葉を聞いて、何も答えなかった。

帰りたい場所があるかどうか、という問いではない。

帰ること自体を、この女はまだ選べていないという話だった。


「一度でいいから、自分で決めたことがありますか」

食事が終わって、ガーデンを歩きながら聞いた。

「え?」

「学校でも、仕事でも、住む場所でも、何でも」

彼女がしばらく歩いた。


「……大学でスペイン語を取ったことがあります。家族は誰も関係ない選択だったと思う」

「好きでしたか」

「好きでした」

少し間があった。「でも1年で辞めました。父に言われて」

それだけを答えた。

なぜかをまだ聞くつもりはなかった。

彼女の話の中にある答えは、まだここには出てきていない。


夜はThe Curatorに連れていった。

レガスピ・ヴィレッジにあるクラフトカクテルバーだ。

薄暗い空間に、棚いっぱいのボトル。

バーテンダーが一杯一杯、丁寧に手をかける。


彼女はマンゴーとカラマンシーを使ったカクテルを頼んだ。

一口飲んで「おいしい」と言った。

それが今夜初めての、本当に何も考えていない声だった。

バーテンダーが彼女に英語で何か話しかけた。

彼女が答えた。笑いながら答えた。

早口のタガログ語が混じっていた。

俺には聞き取れない速さだったが、それがこの女の本来の声の高さなんだろうと思った。


二杯目を頼んだ。

彼女がメニューをじっくり見た。

「どれを飲んでいいかわからない」と言った。

「好きな果物を言ってください」と俺が言うと、「パパイヤ」と答えた。

バーテンダーがそれに何かを組み合わせて作った。

一口飲んだ彼女が「これです」と言った。


「三好さん、怖い人かと思ってました」

「今は?」

「まだ少し怖い」

それからまた笑った。

声を出して笑った。

周りの客が一瞬振り返るくらいの声だった。

それが似合っていた。

ガラのときの笑い方とは、何もかも違った。


「まだ帰りたくない」

呟くように彼女が言った。

俺は立ち上がって、勘定を済ませた。

それからホテルの方向に歩き始めた。



彼女の肌は明るかった。

財閥の娘の体だ、と思った。

光の中で守られて育った人間の、傷のない白さがあった。

細い肩と、そこから続く首筋。

黒髪が枕に広がって、顔の輪郭を際立たせていた。

ガウンを纏っているときよりも、はるかに本人に近かった。

細い腕が俺の腕に触れた。

体に少しだけ力が入った。

力を抜こうとして、うまくいかなかった。

全部委ねようとして、委ねきれない。

そういう繊細さが、この女の正直さだった。


「嫌ならやめますか」

「……いじわる」


答えになっていなかった。

体の方が正直だった。

主導権がどこにあるか、この女はわかっていた。

わかった上で、それでいいと思っていた。

自分で決めたことが一つあるとしたら、この夜のことかもしれなかった。


夜が明けかけた頃、彼女のスマホが震えた。

画面を見た。

伏せた。

また震えた。

また伏せた。


「明後日、帰ります」

彼女が静かになった。

俺の方を向かないまま。


しばらくして、「……同じ日なんです、私も」と彼女が呟いた。

わかっていた。

俺はそのことについて何も言わなかった。

しばらくして、彼女がもう一度聞いた。


「マニラ、また来ますか」

「仕事次第です」

「仕事次第」と彼女が繰り返した。

答えだとわかっていた。

返事はしなかった。

彼女も、それ以上は聞かなかった。



【次話予告】

「何時のフライトですか」 答えを聞いて、彼女は少しだけ笑った。

でも目は笑っていなかった。

翌日は、ベラにとって別の意味でも特別な日だった。

白いドレスが、部屋で待っていた。

三好は知っていた。それでも、何も言わなかった。




Blackbird / 基本情報

Nielson Tower, Ayala Triangle Gardens, Ayala Avenue, Makati City

1937年建造の旧ニールソン空港ターミナルを改装したレストラン。

アールデコ建築とマカティ現代ビルが同時に見える、マニラ唯一の景色。

Mediterranean cuisine。スモークドサーモン₱750〜。

昼も夜も使える。記念日より、語り合いたい夜に向いている。

The Curator / 基本情報

137 Legazpi Street, Legazpi Village, Makati City

マニラ最高峰のクラフトカクテルバー。

フィリピン産素材を使ったシグネチャーカクテルが充実している。一杯₱400〜。

バーテンダーの技術が高い。深夜まで営業。会話が弾む夜に向いている。



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