シンクロニシティ [第2話]
- GENPASS 編集 三好

- 6月27日
- 読了時間: 5分
更新日:6月29日

【第2話】 オールドファッションド
1時間後、七瀬がバーに現れた。
空港で見たときとは別人のような顔をしていた。
トレンチコートの代わりに落ち着いたカーディガンを羽織っていて、黒髪をまとめ直していた。
疲れはまだ顔に残っていたが、さっきまでのぴりぴりした緊張感は消えていた。
シャワーを浴びてきたのがわかった。
「お待たせしました」と七瀬は言った。
「いえ」
七瀬はバーボンのオールドファッションドを頼んだ。
Napa & Ryeはホテルの1階にある。
カウンターと数脚の椅子、奥にテーブルが並んだ小さなバーだ。
空港ホテルのバーにしては落ち着いた内装で、琥珀色の照明の中にウイスキーのボトルが並んでいた。
ワインリストも充実している。
ただ今夜は、この店にいる客の誰も、そんなことを確認する余裕を持っていなかった。
「飲めるんですね」と俺は言った。
「ハリケーンのときくらい飲まないと」と七瀬は言った。
俺はマンハッタンを頼んだ。
バーテンダーがグラスを置いた。
七瀬がひと口飲んだ。
肩の力が、少し抜けた。
それまで空港でずっと張っていたものが、ここで初めてほどけた。
「カウンターでどれくらい待っていましたか」と俺は聞いた。
「1時間半くらいです。最初は英語が通じなくて、通じたと思ったら担当者が変わって、また一から説明して」
「よくある話です」
「こういうとき、どうすればよかったんでしょう」
「早く上の人間を呼ぶ、それだけです」
七瀬が少し笑った。
声には出なかったが、目元が緩んだ。
外で何かが飛んだ。
ガラスに叩きつける雨の音が、一瞬強くなった。
二人して窓を見た。
ヤシの葉か、何か軽いものだった。
雨が横向きになっていた。
空港の誘導灯がオレンジ色に点滅していた。
「ハリケーンって、初めてですか」と俺は聞いた。
「初めてです。映像では見たことあったけど、これがそうかって感じがしなくて」
「どんな感じがしますか ちゃんと怖いですよ」
「正直、もう少しで泣きそうでした。カウンターで」
「そうは見えませんでしたよ」
「そう見えないようにしていましたから」と七瀬は言った。
グラスを両手で包んだ。
「涙を見せたら言いなりにさせられると思って」
「それは正しい判断です」
「でも、もう少し早く声をかけてくれてよかったです」
「手続きが終わっていなかったので」
七瀬がまたひと口飲んだ。
「それは仕方ないですね」と言った。
嵐の音がした。
しばらく、二人で窓の外を見ていた。
七瀬がカメラバッグを足元に置いていた。
「撮りたいですね、これ」と言った。
「外に出られませんよ」
「ガラス越しでも」と言って、バッグからカメラを出した。
窓に向けてシャッターを切った。
液晶を確認して、少し考えてから、もう一枚。
また確認した。
「見てもいいですか」
七瀬がカメラを向けてきた。
嵐の空港だった。
ガラス越しに撮った写真は、空港をまったく別のものにしていた。
誘導灯が雨の中でにじんで、ターミナルのシルエットが霞んで、飛べない飛行機が暗がりの中に浮いていた。
廃墟のように見えた。
でも廃墟ではなかった。
ただ、嵐の中にある空港だった。
「上手いですね」と俺は言った。
「お世辞ですか」
「いえ。廃墟に見えます」
「そこにあるものを、そのままに撮りたいんです」と七瀬は言った。
「加えることも引くこともしないで」
「デトロイトもそれで撮るんですか」
「そうしたいと思っています。もう廃墟ではないけど、まだ完全に戻ってもいない。そういう場所を」
「どっちでもない時間を」
「そうです」と七瀬は言った。
少し驚いた顔をした。
「分かりますか」
「写真は分かりませんが、場所なら少し」
「デトロイトは何度も来ているんですか」
「初めてです」
七瀬が意外そうな顔をした。
「商談で行くのに初めてなんですか」
「今回の話が来るまで、デトロイトに行く理由がなかった」
七瀬がマドラーでグラスの中をゆっくり混ぜた。
「面白い話なんですか」
「EV化に伴うサプライヤーの見直しです。面白いかどうかはわかりませんが、今しかできない話です」
七瀬がうなずいた。
二杯目を頼んだ。
バーテンダーがメニューを持ってきた。
テーブルの上に置いて、下がった。
メニューに手を伸ばしたとき、七瀬も同じタイミングで手を伸ばしていた。
指先が重なった。
一秒ほど、そのままだった。
七瀬が先に引いた。
「どうぞ」と言った。
「いえ」と俺は言って、メニューを七瀬の前に置いた。
七瀬がメニューを開いた。
見ていなかった。
窓の外を見ていた。
「明日も外に出られないですよね」と七瀬が言った。
「おそらく」
「長いですね」
「長いです」
七瀬が二杯目のオールドファッションドを頼んだ。
バーテンダーがオレンジピールをグラスの縁に絞った。
香りが来た。
「フォトグラファーになったのは、最初から写真が好きだったんですか」と俺は聞いた。
「子供のころから撮っていました。父親のカメラを借りて」
「どんな写真を」
「近所の古いもの、ばかりを撮っていました。廃屋とか、閉まったシャッターとか」と七瀬は言った。
グラスをゆっくり回した。
「なんでそれを撮っていたのか、あとから考えたら、なくなる前に残しておきたかったんだと思います」
「それが今の仕事に繋がっているんですね」
「繋がっているというか、ずっと同じことをしているんだと思います」
嵐の音がした。
七瀬の横顔が、オールドファッションドの琥珀色を映していた。
【次話予告】
翌日も、ハリケーンは去らなかった。
廊下の窓の前に、カメラを提げた七瀬がいた。
「ガラス越しに撮っていました」と言って、液晶を見せてきた。
嵐の空港が、全然別のものに見えた。
夜、七瀬は「一人で部屋にいると嵐の音がずっとするんです」と言った。

Napa & Rye(Hyatt Regency Houston Airport内)
IAHターミナルC直結ホテルの1階。
バーボンとクラフトカクテルが充実したホテルバー兼レストラン。
ハリケーンの夜、窓一枚向こうに嵐があった。
外が暴力的であるほど、ここだけが不思議に静かだった。
バーボンのオールドファッションドと、指先が重なる一瞬が似合う夜だった。




![シンクロニシティ [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_1c792288e9c343939a379fceff923f4d~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_1c792288e9c343939a379fceff923f4d~mv2.png)
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