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シンクロニシティ  [最終話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 6月29日
  • 読了時間: 5分



【最終話】 シンクロニシティ


1ヶ月後、東京で会った。

場所は代官山のIvy Placeにした。

泉町にある古い建物で、外壁をツタが覆っている。

夜はテラスに出ると、照らされた木々が見えた。

ヨーロッパのビストロを少しだけ東京に翻訳したような店で、騒々しくなく、気取りすぎてもいない。

特に理由はなかった。

代官山なら七瀬が来やすいと思っただけだった。


七瀬は時間通りに来た。

薄いベージュのセーターに、細いパンツだった。

カメラバッグは持っていなかった。

首にカメラを提げていない七瀬は、少し違う人に見えた。

デトロイトで廃墟を撮っていたときの顔でも、ヒューストンの嵐の夜の顔でもない。

東京の七瀬だった。


「久しぶりですね」と七瀬は言った。

「1ヶ月ぶりですね」

「早いですか」

「そうでもないですね」と俺は言った。

嘘ではなかった。


少しだけ声が低かった。

東京では、七瀬の声がデトロイトより少し低く聞こえた。

ハリケーンの夜に聞いた声でもなく、深夜のホテルの部屋で聞いた声でもない。

普通の声だった。

七瀬が席に着いた。

メニューを開いた。


会話は弾んだ。

デトロイトの続きの話、七瀬が撮ってきた写真の話、商談のその後、東京の話。

特に途切れることなく、2時間が過ぎた。

七瀬は笑った。俺も笑った。

何も不自然なことはなかった。


料理を頼んだ。

前菜にカリフラワーのローストを選んだ。

低温でゆっくり火を通してから、表面だけ強く焼いてある。

タヒニとレモンのソースが絡んで、一口ごとに香りが変わった。

メインは骨付きのグリルチキン。

鶏の皮が薄くパリッとしていて、ハーブの香りが穏やかに続いた。

食べているとき、代官山にいることを少し忘れた。

七瀬はラムのカルパッチョと白身魚を頼んだ。


「東京でもちゃんとしたものが食べられますね」と七瀬が言った。

「ヒューストンのハンバーガーはどうでしたか」と俺は聞いた。

七瀬が少し笑った。

「あれはあれで本物でした」と言った。


そういう会話だった。

軽くて、温かくて、どこにも刺さらなかった。

ワインを頼んだ。

ボルドーの白を選んだ。

グラスが届いた。


乾杯しようとして、グラスを取ろうとした。

七瀬も同じタイミングで手を伸ばした。

指は、重ならなかった。

1センチか2センチか、ほんの少しだけズレていた。

何でもない話だった。

ただ、重ならなかった。


七瀬は気づいたかもしれない。

気づかなかったかもしれない。

表情は変わらなかった。

「乾杯」と七瀬が言った。

「乾杯」と俺は答えた。

グラスを合わせた。

澄んだ音がした。

食事を終えて、外に出た。


代官山の夜は静かだった。

ヒューストンの嵐でも、デトロイトの星空でもない。

ただの東京の夜だった。


「また会えますか」と七瀬が聞いた。

「もちろん」と俺は言った。

七瀬がうなずいた。

タクシーを呼んで、乗り込んだ。

「じゃあ」と言った。

ドアが閉まった。

ガラス越しに一度だけ目が合った。


俺はしばらくそこに立っていた。

悪い夜ではなかった。

会話は弾んだ。

七瀬は変わっていなかった。

俺も変わっていなかった。

どちらも、何も悪くなかった。

あの1ヶ月の間に何が変わったかと聞かれても、答えられなかった。


ただ、何かが違った。

ヒューストンでは、嵐があった。

カウンターで1時間半待ち続けた七瀬がいた。

クレジットカードが同じで、同じホテルに連れて行かれた。

バーで、ハリケーンを窓の外に見ながら飲んだ。


デトロイトでは、偶然があった。

同じレストランに行って、同じフロアで、同じタイミングでグラスに手が伸びた。


東京には、何もなかった。

待ち合わせをして、予約した席に座って、決めたワインを飲んだ。

何も起きなかった。

ただ、静かな夜だった。


シンクロニシティというのは、起きるときは何もしなくても起きる。

起きないときは、何をしても起きない。

ヒューストンのハリケーンも、デトロイトの偶然も、俺たちが作ったものじゃなかった。

何かが起きる場所に、俺たちがいただけだった。


でも東京は、日常だった。

何も起きない夜に、感情は戻ってこなかった。

それはどちらかが悪かったのではなく、何かが悪かったのでもなく、ただそういうことだった。

スキー場で出会った恋が、平地では再現できないように。

あの高度と、あの斜面と、あの速度が揃ってはじめて成立するものがある。

東京で七瀬と食事をするのは、ゲレンデのない場所でスキーをしようとすることに近かった。


七瀬のタクシーが角を曲がった。

次に連絡しよう、とは思わなかった。

七瀬も、しないだろう。

それでよかった。

本物は、複製できない。

道を渡って、駅に向かった。


<完>



Ivy Place(代官山)

東京・代官山いずみ町。

蔦が石貼りの外壁をびっしり覆う古い建物の1階。

夜は中庭テラスの照明が木々に落ちて、ヨーロッパのどこかの路地に迷い込んだような気分になる。

前菜のカリフラワーのローストは、強く焼いた表面とタヒニ&レモンソースの対比が計算されていて、食べるほどに層がある。

グリルチキンはハーブを効かせた皮がパリッと仕上がり、代官山の夜にちょうどいい重さだった。

ワインはフランス・スペイン産を中心に取り揃える。

シンクロニシティは起きなかった。ただし料理は本物だった。


Hyatt Regency Houston Airport(ヒューストン)

IAHターミナルC直結。

ハリケーン・シーズンには、空港全体が閉鎖されることがある。

クレジットカードのプラチナクラス以上には旅行中のフライトキャンセルに対する宿泊補償が付帯しているものがあり、コンシェルジュに連絡することでホテルの手配が可能になる。

空港から外に出ることなく直結でチェックインでき、館内にはNapa & Ryeをはじめとするバー・レストランが充実している。

すべての始まりは、嵐の夜のこのホテルだった。



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