しあわせの保護色 [第2話]

更新日:8月18日

【第2話】 俺のことを、最初から知っていた
翌朝、もう一度資料を広げた。
コタイ・グランド・リゾーツの財務情報は、表に出ているものが少なすぎた。
売上の規模に対して、説明できる資金の流れが薄い。
設立5年で、コタイに複数の開発案件を持つ。
その原資がどこから来ているのかが、数字を眺めているだけでは見えてこなかった。
感覚と数字が、同じ方向を指していた。
スマホを確認すると、雪穂からメッセージが届いていた。
「もしよろしければ、午後にマカオ半島の旧市街をご案内できます。商談まで少し時間があるかと思いまして」
昨日、商談の話をしたっけか。
した気もするし、していない気もした。断る理由もなかった。
タクシーでマカオ半島に渡った。
西湾大橋を抜けると、コタイのカジノ群が後ろに遠ざかった。
窓の外の景色が変わった。
石畳の路地、色褪せたポルトガル様式の建物、洗濯物が2階から下がっている。
同じマカオとは思えなかった。
聖ポール天主堂跡に向かう石段の手前で、雪穂が待っていた。
今日は制服ではなく、薄いベージュのブラウスだった。
日差しの中で髪が少し乱れていた。
整った笑顔だったが、さっきまで考えていた数字が、その顔の前でなぜか薄れた。
石段を並んで上った。1602年着工。
1835年の火災で内部が焼け落ち、正面の石壁だけが残った。
雪穂は短く、でも無駄なく説明した。
観光ガイドのように淀みなく、かといって機械的でもなかった。
「こういう場所が好きなんですか」
と俺は聞いた。
「好き、というより——落ち着きます。何百年も同じ場所に立っているものを見ると」
「動かないから?」
「動かないけど、ちゃんとそこにいる、という感じがするので」
それ以上は言わなかった。
風が通って、彼女の前髪が少し揺れた。
セナド広場に出た。
波型の石畳の模様が広場いっぱいに広がっていた。
観光客が写真を撮っていた。
雪穂はその端を歩いた。
中心より端が好きなのかもしれない、と俺は思った。
「商談のご相手は、どういった方々なんですか」
さりげない聞き方だった。
「グループの代表と、開発担当の方々です」
と俺は答えた。
「よくある形ですよ」
「そうですか」
と雪穂は言った。
「マカオにはいろんな会社があって、いろんなお金の動き方があって——難しいですよね、外から来た方には」
難しい、と言いながら、それ以上踏み込まなかった。
ただその言葉が、さっきの数字の感触と重なった。
媽閣廟の前まで来て、雪穂が立ち止まった。
線香の煙が流れていた。
参拝者が並んでいた。
「16世紀からここにあります。マカオという地名も、ここから来ていると言われています」
「何の神様ですか」
「海の神様です。航海の安全を守る」
「俺には必要な神様ですね」
と俺は言った。
「今回は少し、波が高い気がするので。仕事の話ですけどね」
雪穂は俺を見た。
一瞬だけ、何かを考えるような顔をした。
それからいつもの笑顔に戻った。
「安全に、帰れるといいですね」
雪穂はそう言って、また前を向いた。
夜の商談会食は、Grand Lisboa Hotel内の「The Eight(パーエイト)」だった。
ミシュラン3つ星。開業以来、連続取得している。
8という数字が縁起のいいマカオらしく、店内のあらゆる意匠に八の形が組み込まれていた。
テーブルクロスは白、椅子は深紅。
ウォールナットの格子が天井まで続き、
中心には巨大な翡翠色のシャンデリアが下がっていた。
先方は3名だった。
代表の男、財務担当、法務担当。
代表は60代、よく日に焼けていた。笑顔が多かった。
笑顔が多い人間は、笑顔で何かを隠せる人間だと俺は経験上知っていた。
乾燥アワビの薄切りに、金華ハムのブロスがかかっていた(MOP580)。
口に入れると、凝縮した旨みが静かに広がった。
料理は正直だった。人間がそうとは限らない。
話した。プレゼンが来た。
車の仕様、デリバリースケジュール、保証条件。
スライドは洗練されていた。数字はきれいに並んでいた。
だが、資金構成についての質問には、
「調整中の部分もございまして」と代表は笑顔で言った。
そのまま次の話題に移った。
感覚が、静かに確信に近づいた。
握手して、店を出た。
タクシーを待ちながら、夜のグランド・リスボアのネオンを見ていた。
金色の蓮の花が、闇の中で光っていた。
美しいものと、正しくないものが、同じ場所に並んでいる。
マカオはそういう街だった。
ホテルに戻ると、ロビーで雪穂がいた。
仕事を終えたところらしかった。
「お帰りなさい。いかがでしたか」
「よくできた夜でした」
と俺は言った。
「料理は特に」
雪穂は小さく笑った。
「明日のご予定は」
「午前中に少し、一人で動こうと思っています。フェリーターミナル周辺を」
雪穂の表情が、一瞬だけ止まった。
「……一人で、ですか」
「ええ。なぜですか」
彼女は少し間を置いた。
それから、静かに言った。
「明日は、一人で動かないでください」
「どういう意味ですか」
答えなかった。
「おやすみなさい」とだけ言って、
廊下の奥へ歩いていった。
振り返らなかった。
【次話予告】
翌朝、雪穂の言葉を半分だけ信じた。フェリーターミナルへは行かなかった。
代わりに、商談相手の関係企業をホテルの部屋から調べていた。
昼過ぎ、ロビーで雪穂と目が合った。彼女の表情に、昨夜と違う何かがあった。
組織が動いたことを、俺はまだ知らなかった。

聖ポール天主堂跡(Ruínas de São Paulo)
1602年着工のイエズス会の聖堂。1835年の火災で内部が焼失し、正面のバロック様式の石壁のみが現存する。マカオ歴史地区の象徴的な景観として世界遺産に登録。石段を上りきると、コタイのカジノ群とは別の時間が流れていた。

セナド広場(Largo do Senado)
マカオ半島中心部に位置する広場。ポルトガル様式の白とイエローの建物に囲まれ、広場の石畳には波型の白黒模様が施されている。世界遺産地区の中核。観光客と地元の人間が混在する、マカオで最も人の集まる場所。

媽閣廟(A-Ma Temple)
1488年創建とされるマカオ最古の寺院。海の女神・媽祖(マズー)を祀る。マカオという地名はここに由来するとも言われる。線香の煙と祈りの声が常にある場所。世界遺産。入場無料。

The Eight(パーエイト)(Grand Lisboa Hotel, Avenida de Lisboa)
香港出身の名シェフ陣による広東料理の最高峰。ミシュラン3つ星を長年維持。8を意匠モチーフにした格調ある空間、深紅と翡翠と金を基調にしたインテリア。乾燥アワビのブロス仕立て(MOP580〜)、北京ダック(MOP780〜)など、素材の力をそのまま皿に載せる料理が並ぶ。マカオで最も格の高い接待に使われる一軒。





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