しあわせの保護色 [最終話]


【最終話】 しあわせの保護色
腕が引かれた。
カーテンで遮られた暗闇の中で、雪穂の白い肌だけが浮かんでいた。
細い首筋に顔を埋めると、ひんやりとしていた。
でもその奥に熱があった。
皮膚の下で、確かに何かが動いていた。
雪穂の指が背中に回った。
縋るような、手放したくないような力だった。
その手を握り返した。指が細かった。
骨の感触が、手のひらにそのまま伝わってきた。
唇が触れた。
向こうから来た。
柔らかかった。震えていた。
薄い肩を引き寄せると、肩甲骨がそのまま手のひらに当たった。
シャツの裾を払うと、白い腹が現れた。
鎖骨の下、胸の丸みが手の中に収まった。
温度があった。
雪穂の息が乱れた。
俺の名前を呼んだ。
今夜初めて、俺の名前を呼んだ。
腰の細さが骨まで伝わってきた。
太腿の内側が白かった。
指を埋めると、奥に熱があった。
どこまでが彼女で、どこからが自分なのか、わからなくなった頃
——雪穂が低く声を上げた。
背中に爪が食い込んだ。
手放すまいとしている力だった。
彼女の体は軽かった。
腕の中に収まっていた。
それでも重さがあった。人間の重さだった。
夜のあいだ、雪穂は何も話さなかった。
俺も聞かなかった。それでよかった。
やがて目が重くなった。
意識が遠くなっていった。
眠る前に、雪穂の髪が頬に触れるのを感じた。
―――
三好の呼吸が、やがて深くなった。
雪穂はそれを、暗闇の中で確かめた。
寝息が規則的になるまで、じっと待った。
1分。3分。5分。
静かに体を起こした。
シーツの音を立てないように。
ゆっくりと足をおろした。
床が冷たかった。
薄いシャツを拾い上げた。
荷物はなかった。
最初から持ってこなかった。
三好の顔を見た。
目を閉じていた。
眠っている顔は静かだった。
ドアを開けた。
廊下の光が、細く差し込んだ。
振り返らなかった。
―――
朝、三好が目が覚めたとき、隣は空だった。
シーツに、わずかな温度が残っていた。
時計は午前6時を過ぎたところだった。
バスルームのドアは開いていた。
中は暗かった。
雪穂のバッグも、靴も、何もなかった。
まるで最初からそこになかったように、きれいに消えていた。
カーテンを開けると、窓の外には朝のコタイが広がっていた。
夜のネオンが落ちて、カジノの建物が灰色の空の下に立っていた。
フロントに電話した。
「雪穂という名のコンシェルジュの方を呼んでいただけますか」
「申し訳ございません、その名前のスタッフは在籍しておりません」
「昨日まで対応してくれていた方なんですが」
「恐れ入りますが、お客様のご担当として記録されているスタッフはおりません」
一拍置いて、もう一度同じことを言おうとして、やめた。
在籍しておりません。
それが正式な答えだった。
何かが、背筋を通り抜けた。
急いで荷物をまとめた。
書類をケースに入れた。
返答メールは下書きのまま閉じた。
チェックアウトを済ませ、エントランスを出た。
ドアマンが「ご用意しております」とタクシーを指した。
断った。
自分で路上のタクシーを捕まえた。
「タイパ・フェリーターミナルへ」と告げた。
途中、媽閣廟の前を通った。
16世紀からそこにある海の神様。
朝の光の中で、線香の煙だけが静かに上がっていた。
「安全に、帰れるといいですね」
雪穂が言った言葉が、頭の中で鳴った。
フェリーに乗った。
海は灰青色で、静かだった。
船が離れるにつれ、コタイのカジノ群が後ろに小さくなった。
夜には光り輝いていた建物が、
朝の光の中ではただの大きなコンクリートだった。
帰れた。無事に。
それだけは確かだった。
―――
タイパ・フェリーターミナルの人混みに、雪穂は紛れていた。
帽子を深く被り、マスクで顔を隠した。
ゲートの見える柱の陰に立って、待った。
もし何かあれば、その場で動く用意はあった。
三好がスーツケースを引きながら現れた。
チェックインカウンターへ向かった。
列に並んだ。
書類を出した。
係員が頷いた。
ゲートを通過した。
それを確認した。
岸壁へ向かった。
ターミナルの外に出ると、海からの風が来た。
停泊している船が見えた。
次に乗る船の行き先は、まだ決めていなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
もう戻らない、戻れない…。
―――
東京に戻り、3日後に報告書を提出した。
資金構成の不透明さ、商談相手の法人構造の問題点、総合的な判断として締結不可。
上司は「よく判断した」と言った。
次の案件の話になって、マカオの話は終わった。
雪穂のことは、書かなかった。
名前も、顔も、確かにあった。
交わした会話も、並んで歩いた石畳の感触も、あの夜の部屋の静けさも、全部本物だった。
だがフロントは「在籍しておりません」と言った。
記録の上では、彼女はいなかった。
帰国してからしばらくして、頭の中で整理した。
雪穂の周囲に、何かがあった。
何が、とは言葉にできない。
ただ彼女は、その何かから俺を遠ざけようとしていた。
あの朝、ホテルの用意したタクシーではなく、
咄嗟に自分で車を拾ったのは、そのためだったと思う。
理由は言葉にならなかったが、体が動いていた。
雪穂が俺の近くで動くコンシェルジュという役割は、
俺が無事でいるための保護色だったのだ。
温かい笑顔も、先回りする気遣いも、こちらを安心させる言葉の選び方も
——全部が、彼女を彼女に見せないための色だった。
でもあの夜だけは、その色が薄くなった気がした。
薄さの中に、初めて本当の何かを見た。
俺にとってしあわせの保護色、それが彼女の仕事だった。
―――
最初は、指示通りに動くつもりだった。
商談を成立させる。
そのために近づき、信頼させ、必要なところへ誘導する。
それがいつもの仕事だった。
三好も最初はそういう相手だった。
でも——どこかで変わった。
旧市街の石畳を歩いたとき。
媽閣廟の前で線香の煙を眺めたとき。
「光の多い場所には、影も多い」と言ったとき、
自分の言葉が自分に刺さった。
三好は何も知らなかった。
だからこそ、まっすぐに
——雪穂を見ていた。
指示通りに動けば、三好は商談を呑んでいたかもしれない。
呑んだ先に何が待っているかは、知っていた。
できなかった。
組織に消されるとしても、このまま動くことのほうが耐えられなかった。
施設を出てから、誰かのために何かを諦めたことは一度もなかった。
今夜が、初めてだった。
組織が手を回せる国は、世界のすべてではない。
逃げることには慣れていた。
でも今夜は違う。
追われるから逃げるのではなく、向かいたい場所があるから動く。
海が広かった。
―――
彼女がどこへ行ったのか、今も知らない。
彼女は俺のしあわせのために保護色になった。
そして消えることで、きっと自分自身のしあわせに向かえた。
しあわせの保護色。
なんだかその言葉がしっくりくる出会いだった。
彼女の名前が本当に「雪穂」だったかどうかも、もうわからない。
ただ、それでも、その名前をしばらく忘れないと思う。
<完>

タイパ・フェリーターミナル(Taipa Ferry Terminal, Avenida de Guimarães, Taipa)
コタイ・ストリップに隣接するフェリーターミナル。香港国際空港行きの高速船が発着する。
チェックイン後すぐに乗船でき、所要時間は約30分。コタイの景観から、海の上の静けさへ。
マカオを去るための、最後の場所。

媽閣廟(A-Ma Temple, Barra, Macau Peninsula)
マカオ最古の寺院。朝は参拝者も少なく、静けさの中に線香の煙だけが流れている。
帰り道に窓から見るだけでも、何かが残る。





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