top of page

しあわせの保護色  [第3話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
8月16日
読了時間: 5分

更新日:8月18日




【第3話】 今夜だけ、ここにいる


翌朝、俺はフェリーターミナルへ行かなかった。


雪穂の言葉を半分だけ信じていた。

根拠はなかった。

ただ、あの一瞬の表情には、俺が知らない何かがあった。

知っている情報が多いほど、人間の目は深くなる。

彼女の目は、深かった。


ホテルの部屋で、コタイ・グランド・リゾーツの関係企業を調べた。

香港に持ち株会社、マカオにSPC(特別目的会社)が三つ。

設立年が2020年以降に集中していた。

マカオのカジノ産業が規制強化を受けた時期と重なる。

規制に押し出された資金が、別の器に流れ込んだと見るのが自然だった。

VIP向けフリート事業は、大きな資金移動を合法的に見せる手段になりうる。

上司の「きな臭い」が、ようやく輪郭を持ち始めた。


昼過ぎ、ロビーへ降りた。

雪穂と目が合った。

彼女が先に視線を外した。

肩が、わずかに強張っていた。

スーツ姿の男が二人、エントランス付近で手持ち無沙汰に立っていた。

ホテルの客とも、スタッフとも、少し違う佇まいだった。

30分後、二人はいなくなった。

俺が部屋に戻らなかったからか、諦めたのか、理由はわからなかった。

ただ、フェリーターミナルに行かなくてよかったと、根拠なく思った。

何かが動いていた。



―――



雪穂がその連絡を受けたのは、ちょうどそのころだった。

スマホの画面には、登録されていない番号が表示されていた。

それが誰からかは、見た瞬間にわかった。


「三好という男が、前向きな返事をしなかった。どういうことだ」

声は低く、抑揚がなかった。

感情のない言葉が、感情のある言葉より怖いことを、

雪穂は長い時間をかけて知っていた。


「まだホテルにいる。今夜中に動かせ」

雪穂は窓の外を見た。

コタイの空は青かった。


自分がどこから来たのか、

人に話したことは一度もなかった。



いつも怒鳴り声から始まった。

壁の薄い部屋で、私はそれを聞いていた。

父の声だった。母が泣いていた。


そんなことが繰り返されたある夜

——ついに聞いたことのない音がした。

それきり、父の声は聞こえなくなった。


私は施設に入った。

「夫を殺した女の子ども」という情報は、施設の他の子供の口から口へと広がった。

石を投げられた。

食事を奪われた。

夜、眠れなかった。


数年が経ったある夜、耐えられなくなって施設を出た。

路地で食べ物を調達し、万引き・ひったくりを繰り返す日々が続いた。

ある夜、万引きが見つかり追われた。

角を曲がった先に男が立っていた。「入れ」と言った。

倉庫の中に隠れた。

追っ手の声が遠ざかった。


その男が、今電話をかけてきた男だった。

住む場所と、食べるものと、名前を与えてくれた。


雪穂という名前も、その男がつけた。

恩義のために働いた。

出たいとは思わなかった。

感情が動く仕事ではなかった。

今まで、ずっと。

今回も、同じはずだった。


「できなければ、三好を排除する。わかったか」

「——わかりました」

電話を切った後、雪穂はしばらく壁を見ていた。



―――



夕方、三好は商談の担当者と電話した。

「持ち帰ります」

と三好は答えた。

「社内の確認が必要ですので」


一拍、間があった。

声のトーンが変わった。

電話が切れた。

夕食は部屋で済ませた。

窓の外に、コタイの光が広がっていた。

暗くなるほど明るくなる街を、しばらく眺めていた。



―――



廊下の角で、雪穂はその声を聞いた。

「持ち帰ります」

——ドアの向こう、三好の声だった。


持ち帰る。

それは、前向きな返事をしないという意味だった。

組織はそれを知れば、三好を邪魔者と判断する。

交渉が決裂したなら、知りすぎた人間を残しておくわけがない。


事故に見せかけて消すはずだ

——それが組織の論理だった。

雪穂はその論理を、体で知っていた。


スマホが振動した。

同じ番号だった。

「今夜、説得しろ。できなければ——」

「します」

と雪穂は言った。

「今夜、部屋に行きます」


電話を切った。

廊下に人はいなかった。


今夜のことを決めた。

組織に約束した通り、三好の部屋へ行く。


ただし、目的は違う。

三好に何かが起きる前に、自分が消える。

組織は確信を得ていないまま、

明日、日本に帰る三好より私に狙いを定めるはず。

それでいい。


今夜だけ、そこにいる。

それで終わりにする。


この感情に名前があるのかどうか、雪穂にはわからなかった。

施設を出てから、誰かのために何かを失う選択をしたことは一度もなかった。

今夜が、初めてだった。

ただ、失いたくないと思った。

それだけは確かだった。



―――



三好の部屋にノックがあったのは、午後11時を過ぎた頃だった。

雪穂だった。制服ではなかった。

薄い色のシャツ、それだけだった。

廊下の光の中で、髪が少し乱れていた。


「今夜だけ、お願いします」

と彼女は言った。

「ここにいても、いいですか」

「理由を聞いてもいいですか」

「聞かないでください」


部屋に入った雪穂は、組織の目もあるのでカーテンを閉めた。

外の光が遮られ、部屋が暗くなった。

それから振り返って、俺のほうを向いた。


「抱いてください」

それだけだった。



【次話予告】

朝、目が覚めたとき、隣は空だった。雪穂のバッグも、雪穂の靴も、なかった。

フロントに問い合わせると、「雪穂という名のスタッフは在籍しておりません」と言われた。

俺は荷物をまとめた。商談の返事は、送らなかった。




Wynn Palace(客室)(Avenida da Nave Desportiva, Cotai)

コタイ・ストリップを一望するデラックスルーム。

床から天井まで届く大窓から、夜のカジノ群が光を放つ景観が広がる。

静かな部屋と、静かでない夜。マカオという街は、窓の内側と外側で、まったく別の時間が流れている。



コメント


bottom of page