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気づいたら片想い  [最終話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
8月3日
読了時間: 5分



【最終話】 気づいたら片想い


朝のバルセロナは、夜より正直だ。

ライアが連れていったのは、Gràciaの路地にある小さなバルだった。

カウンターには地元の男が二人、無言でコーヒーを飲んでいた。

テレビでニュースが流れていた。

誰も俺たちを気にしなかった。


「パンコントマテ、食べたことある?」

「ないです」

トマトをすりおろしたものが、バゲットの表面に塗られて出てきた。

オリーブオイルと塩。それだけだった。

素朴な見た目で、口に入れると旨みが先に来て、酸味が後に来た。


「地味ですね」

「バルセロナはそういうところ」

「外から見ると派手に見えます」

「外から見ると——ね」

ライアはそこで止めた。

続きを言わなかった。

俺が外から見ているだけだ、ということだった。


ライアがコーヒーを飲んだ。

砂糖を入れなかった。

カウンターのおじさんたちはテレビのニュースを見ながら小声で喋っていた。

スペイン語が聞き取れないが、声の間合いでおよそのことはわかった。


「3回目なのに、まだ知らないものがあります」

「何回来ても変わる街だから」

「連れてくる人間が変わるから、じゃないですか」

ライアが少し間を置いた。


「……正直ね」

「嘘をついてもわかりそうだから」

「わかる。そういうのは」

「じゃあ、今はどう見えていますか」

ライアは答えなかった。

カップを置いて、外を向いた。

それが答えだった。


バルを出て、俺たちはGràciaの路地を歩いた。

朝の街だった。

バイクが一台通り過ぎた。

パン屋の窓から温かい匂いがした。

猫が塀の上で目を閉じていた。

洗濯物がバルコニーから出ていた。

曜日に関係なく、人が普通に生きている朝だった。

ライアは何も説明しなかった。

俺も聞かなかった。


「目的地があるんですか」

「特にない」

「じゃあ、どこに向かってるんですか」

「帰り道」

Plaça del Diamantという小さな広場に出た。

噴水があって、鳩が数羽いた。

ベンチで老婆が犬を座らせていた。

子どもが一人、自転車を押していた。

観光客は誰もいなかった。


「ここ、好き?」

「昨夜も同じことを聞きましたね」

「違う場所だから」

「同じように好きです」

「なんで」

「あなたがいるから」

ライアが歩みを止めた。

俺も止まった。


「……本当にずるい」

「Paradisoのときより、もっとずるいですか」

「冷たいくせに優しいこと言うの——一番ずるいパターンだよ」

「わかってます」

ライアが小さく息を吐いた。

笑いかけて、やめた。

広場の噴水が静かに水を落としていた。


「昨夜、あなたのことが読めなかった」

「どこが、ですか」

「全部」

少し沈黙があった。

「俺も、あなたのことは読めていません」

ライアが俺を見た。

「嘘くさい」

「どうしてですか」

「3日間、ずっと読もうとしてたじゃない」

「読もうとしていたことと、読めていることは別です」

ライアが少しだけ黙った。

鳩が一羽、足元を歩いていった。


Mandarin Orientalに戻ったのは、フライトの3時間前だった。

チェックアウトは済ませてある。

荷物を持った俺と、昨夜と同じ服のライアが、ロビーに立っていた。

大理石の床に、昼前の光が斜めに落ちていた。

フロントスタッフが遠くで頭を下げた。

昨夜と同じスタッフだった。


「次、バルセロナに来るのはいつ?」

「仕事次第です」

「仕事以外では来ない人でしょ」

「そうかもしれません」

「正直ね」

短い沈黙があった。

ロビーのBGMが低く流れていた。


「また来る?」

ライアが言った。

「俺が来ると思う?」

「わたしに会いたそうだったから、聞いてあげているんだよ」

俺は少し考えた。

考えたふりをした、かもしれない。


「じゃあ、また来てあげましょうか」

ライアが笑った。

昨夜一番じゃなく、3日間で一番、余計なものが混じっていない笑い方だった。

「お好きにどうぞ」

ライアが先に外へ出た。

自動ドアが閉まった。

バルセロナの日差しの中、

その後ろ姿がPasseig de Gràciaの人混みに消えていった。


俺はしばらく、ガラス越しに見ていた。

振り返らなかった。それでよかった。

飛行機がバルセロナを離れた。

地中海が眼下に広がった。

青く、広く、静かだった。

海だった。


目に見えるものが真実とは限らない。

何が本当で、何が嘘か——

ライアの3日間は、ずっとそういう時間だった。

仮面をつけていたのか、一度だけ外したのか。

あの笑い方が本物だったかどうかも、今もまだわからない。


名前を呼ばれた瞬間のことを、飛行機の中で何度か思い出した。

あの声だけは——本物に聞こえた。

「聞こえた」だけでは証明にならない。

でも、それで十分な気がした。


認めたくはなかった。

でも、化かし合いを気取っていた分だけ、

心はどこかで脆くなっていたのだと思う。


——気づいたら、片想いだった。


受け入れるしかない。

どうやら、そういうことらしかった。


「また来てあげようか」と言ったのは本気だった。

ライアの「お好きにどうぞ」が本気かどうかは——まだわからない。


それが答えで、それがバルセロナだった。

そういう、街だった。


<完>



Plaça del Diamant(Gràcia地区)

カルメ・ロプレタの小説でも知られるGràciaの小さな広場。噴水と鳩と、犬を連れた老人。観光地図には載らない。ライアが連れていく場所は、いつもそういうところだった。

Mandarin Oriental Barcelona(Passeig de Gràcia 38-40)

Passeig de Gràciaの5つ星ホテル。Casa BatllóとCasa Lleó Moreraが目の前に見える。出発前のロビーは、昨夜より少しだけ明るかった。



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