top of page

帰り道は遠回りしたくなる [第3話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
6月21日
読了時間: 5分



【第3話】 アラビア海の側で


MasqueはローワーパレルのRaghuvanshi Mills Compoundにある。

かつて綿花工場だった建物の中に、店がある。

高い天井、むき出しの梁、赤レンガの壁。

装飾ではなく、時間が作ったものだ。

シェフのPrateek Sadhuはヒマラヤの山岳地帯出身で、

インド亜大陸の先住民的な食材と現代の技法を組み合わせたコース料理を出す。

アジアのベストレストラン50に選ばれている。

テイスティングコースは一人5500ルピー。日本円で1万円ほど。


「ここも最初ですか」とPriyaが聞いた。

「はい」

「毎回来たことない店に連れて行くんですか」

「いい店なら調べればわかる」

Priyaが口元に少し笑みを作った。


最初の一皿は、黒いセラミックの皿に盛られた小さな料理だった。

発酵させたジャックフルーツと、野生のベリー、地元のスパイスを使ったエスプーマ。

口の中でほどけた瞬間に、甘みと酸みと土の香りが一度にくる。

これがインドなのか、と思った。

知っていたインドとは別の場所から来たものだった。


5皿目に、アラビア海の魚を使った料理が出た。

薄く切った白身魚が、黄色がかったブロスの中に浮かんでいる。

ターメリックと南インドのスパイスが溶けた香りが鼻を抜けた。

Priyaが一口食べて、少し目を細めた。


「これは南インドの味」と彼女が言った。

「チェンナイの親戚の家で食べたことがある」

初めて個人的なことを話した。

「家族はムンバイですか」

「両親と、弟が一人」

「戻ってきたのはそのためでもある?」

Priyaが少し間を置いた。

「そうです」と言ってから、「ロンドンは楽でした。でも楽なだけだった」と続けた。

それ以上は聞かなかった。


コースが終わって、夜の11時近くだった。

外に出ると、夜風がアラビア海の方から来ていた。

ローワーパレルの工場跡の街は、夜になっても少し埃っぽい。

でも悪くない。

この街の正直さだと思う。


タクシーを呼ぼうとしたとき、Priyaが俺の前に立った。

「次は?」

「部屋からゲートウェイが見える」

確認ではない。情報でもない。ただ言った。


Priyaは何も言わなかった。

先に歩き出して、路上のタクシーに手を挙げた。

後を追った。


タージの部屋に入ったとき、Priyaは真っ直ぐ窓に向かった。

カーテンを開けると、ゲートウェイ・オブ・インディアが見えた。

夜のアラビア海が黒く光っている。

アーチ型の門が、下から照らされて橙色に浮かんでいた。


「本当に見える」

「そう言いました」

Priyaが振り返った。

「Miyoshi-san」

「はい」

「あなたのことが、まだよくわからない」

「ゆっくりわかればいい」

「今夜は——」

「急がなくていい」

部屋の中が静かだった。


Priyaが窓から離れて、こちらに向かってきた。

ヒールを脱いで、少し小さくなった。

それでも俺の顎の高さあたりまである。

黒い長い髪が揺れた。


手が俺の腕に触れた。

引き寄せた。

褐色の肌が近かった。

鎖骨のラインが、室内の淡い光の中で浮かんでいた。

薄いワンピースの布越しに、腰の細さが手のひらに伝わった。


キスをした。

Priyaは受け身ではなかった。

体を押しつけてきた。ためらいがない。

そういう女だ、と思った。


ワンピースのジッパーを背中から下ろした。

褐色の肌が、上から順に現れた。肩の丸み、背骨の線、腰のくびれ。

Priyaが振り返って俺を見た。

目が暗かった。暗いが、怖くない。

「電気を消しますか」

「消さなくていい」

見たかった。


ブラジャーのホックを外した。

細い体に不釣り合いなほど、胸は豊かだった。

褐色の肌の上で、乳首が濃い色をしていた。

手のひらで包むと、柔らかさの中に芯があった。

Priyaの息が少し浅くなった。


シーツの上に横になったとき、黒い長い髪が扇のように広がった。

ゆっくり触れた。

鎖骨から、胸へ、腹へ、腰へ。

Priyaの体は主張が強かった。

反応が素直だった。

声を我慢しようとして、できていなかった。


「Miyoshi-san」

「ここにいます」

Priyaの腰が動いた。

こちらを引き寄せようとする力があった。

受け取った。


入ったとき、Priyaが息を詰めた。

目を閉じて、唇を少し開けた。眉が寄った。

ゆっくり動いた。

窓の外にムンバイの夜があった。

アラビア海が黒く光っていた。

ゲートウェイのアーチが橙色に浮かんでいた。

室内には二人の呼吸と、Priyaが低く漏らす声だけがあった。


Priyaの手が俺の背中に回ってきた。

爪の感触があった。

深くなるにつれて、声が変わった。

「——もっと」と英語で言った。

動きを速めた。

「——待って——」

待たなかった。

「——待って、って——」

待てなかった。

Priyaも待っていなかった。

体が言っていることと、声が言っていることが、正反対だった。

そういう女だ、と思った。


Priyaが張り詰めて、それから一度に力を抜いた。

俺もそこで終わった。

しばらく、二人ともそのまま動かなかった。

Priyaが先に動いた。

隣に転がって、天井を見た。


「上手い」と英語で言った。

「ありがとう」と俺は答えた。

静かな笑い声があった。

窓の外にムンバイが見えていた。

翌朝、Priyaは早かった。

俺が目を覚ましたとき、すでにワンピースを着ていた。

鏡の前で髪をまとめていた。

気配に気づいて、振り返った。


「今日は商談があります」

「俺もです」

「うまくいくといいですね」

「はい」

ドアのところで、Priyaが一度だけ止まった。

振り返らずに言った。


「また——」

「また連絡します」

短い間があった。

「わかりました」

ドアが閉まった。


俺はしばらくベッドにいた。

窓の外に、朝のアラビア海が見えた。

ゲートウェイはもう昼の顔をしていた。



【次話予告】

最終日の商談が終わり、空港へ向かうタクシーの中でスマホを開いた。

Priyaへのメッセージを書いた。書いては消した。

マリン・ドライブを遠回りしながら、それでも送れなかった。

なぜかは、今でもうまく説明できない。


→ 最終話「帰り道は遠回りしたくなる」 に続く。



Masque / 基本情報

Raghuvanshi Mills Compound、ローワー・パレル。

Chef Prateek Sadhuによるモダン・インディアン料理。

アジアのベストレストラン50選出。

インド亜大陸の先住民的な食材と現代技法を組み合わせたテイスティングコース(5500ルピー/人)。

かつての綿花工場の建物が、料理の背景になっている。



コメント


bottom of page