帰り道は遠回りしたくなる [最終話]
- GENPASS 編集 三好

- 6月22日
- 読了時間: 4分

【最終話】 帰り道は遠回りしたくなる
最終日の商談は、午後から動いた。
タタのCPOが修正した条件を持ってきた。
前回より数字は動いていたが、まだ強気だった。
俺は資料を一枚出した。
「この水準だと、御社内の承認が通らない可能性がある」と言った。
理由を3つ述べた。先方が少し黙った。
CPOが隣のCFOに小声でヒンディー語で何か言った。
CFOが頷いた。
「修正しましょう」
契約書の草案を交わしたのは夕方6時だった。
握手をして、ロビーを出た。
空港に向かうタクシーに乗った。
Chhatrapati Shivaji Maharaj International Airportまでは、道が混めば1時間を超える。
夕暮れ時のムンバイは、渋滞と夕日と潮の匂いが混ざる。
街が色を変えていく時間帯だ。
スマホを開いた。
Priyaの連絡先があった。
昨夜、ドアの前で交換した。
メッセージを書き始めた。
「ムンバイを離れる前に。」
そこで止まった。
続きを書こうとした。
何度か書いては消した。
「また来ます」は嘘かもしれない。
「良かった」は軽すぎる。
「またいつか」は無責任だ。
何を伝えたいのかが、うまく形にならなかった。
信号で止まった。
「遠回りしてくれますか」と俺は運転手に英語で言った。
「空港ですよね」
「急がないので、マリン・ドライブを通っていってほしい」
タクシーが向きを変えた。
マリン・ドライブに出た。
弧を描いた道路の右手に、アラビア海が広がっていた。
夕日が水平線近くにあった。
オレンジと紫が混ざった空が、海面に映っていた。
連絡するかどうかを、この道の間に決めようと思っていた。
でも走りながら、何も決まらなかった。
ただ海を見ていた。
Priyaのことを考えた。
Harbour Barの窓から海を見ていた彼女の横顔を思い出した。
「もう一度ここから見たい」と言ったときの声を思い出した。
昨夜のことを思い出した。
翌朝、ドアの前で「また——」と言いかけたときの間を思い出した。
メッセージは下書きのまま残っていた。
空港に着いた。
チェックインを済ませた。
保安検査を抜けた。
搭乗ゲートの椅子に座ったとき、もう一度スマホを開いた。
「ムンバイを離れる前に。」
続きを書かずに、アプリを閉じた。
帰国して1週間が経った。
「今日こそ連絡しよう」と思いながら、しなかった。
今日じゃなくてもいい、という気持ちがほんの少しだけ上回った。
2週間が経った。
仕事が忙しかった。
それは本当だった。
でも、それだけではなかったと思う。
1ヶ月が経った。
1ヶ月経つと、もう送りにくくなっていた。
「久しぶりに」と書くには短すぎて、「お元気ですか」と書くには何かが違う気がした。
何もないのに連絡する理由が、うまく作れなかった。
2ヶ月が経った。
ムンバイ出張の話が別の部署に回ってきた。
俺には別の案件があった。
仕方なかった。
3ヶ月が経った。
Priyaの名前が、スマホの中で動かなくなった。
なぜ送らなかったのか、今でもうまく説明できない。
嫌いになったわけではない。
忘れていたわけでもない。
連絡したくなかったわけでも、きっとない。
ただ「今日こそ」と思うたびに、「でも今じゃなくてもいい」という気持ちが少しずつ上回り続けた。
その繰り返しだった。
明日でもいい、来週でもいい、落ち着いたらでいい
——そう言い続けた結果、もう送れない時間が積み重なっていた。
誰にでもあると思う。
連絡したかった相手に、結局連絡しなかった経験が。
理由なんてない。
強いて言えば、「今じゃない」という感覚が少しずつ積み上がっただけだ。
気づいたときには、もう遅かった。
自分でもよくわからない。
好きな相手だったのかもしれない。
だから踏み出せなかったのかもしれない。
あるいは単純に、俺はそういう人間なのかもしれない。
どれも正解で、どれも言い訳だった。
遠回りをするつもりだった。
マリン・ドライブを通ったのは、決断するための時間が欲しかったからだ。
時間があれば何かが変わると思っていた。
でもその時間で俺が出した答えは、何も送らないことだった。
遠回りをしながら、結局、同じ場所に戻った。
こういう出会いをすると、帰り道は遠回りしたくなる。
でも帰り道は、どこで遠回りしても、最後は同じところに着く。
それだけのことだ。
それが、どうしようもなく、俺だった。
<完>

Taj Mahal Palace Hotel(タージ・マハル・パレス・ホテル) / 基本情報
アポロ・バンダー、コロバ。1903年12月開業。
ゲートウェイ・オブ・インディアを目の前に見下ろす、ムンバイ最古のラグジュアリーホテル。
2008年のテロ攻撃を生き延び、今なおこの街の象徴であり続ける。
海側の客室からは、アラビア海とゲートウェイのアーチが同時に見える。



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