帰り道は遠回りしたくなる [第1話/全4話]
- GENPASS 編集 三好

- 6月19日
- 読了時間: 5分

【第1話】 チャイと名刺
この街は、音が多い。
ムンバイに来るたびにそう思う。
クラクション、売り声、寺院の鐘、工事の音——それが重なって、塊になっている。
騒音ではなくて、街の体温に近い。
タタ・モーターズのムンバイ本社で商談が終わったのは、午後3時を少し過ぎたころだった。
打ち合わせは2時間かかった。
テーマはEVシフトに伴うサプライヤーの再編だ。
先方のCPOが最初に言ったのは「日本のサプライヤーはEV移行が遅い。
正直、今のパートナーシップを見直す時期に来ている」という一言だった。
俺は資料を一枚めくった。
「おっしゃる通りです」
同意から入った。否定より速い。
「ただ、移行が遅いということは、まだ決まっていないということでもある。今この段階で入ることが、5年後に意味を持つ」
次のページに数字を並べた。
EV部品の調達コスト削減率、日本の主要サプライヤーとの既存ネットワーク、納期の達成率。
隣に座るCFOが眼鏡を少し持ち上げた。CPOが10秒ほど黙った。
「もう一度話しましょう」
それで十分だった。今日の仕事は終わった。
BKCから配車を呼ぶことも考えた。
ただ、打ち合わせの密度が高かったぶん、頭を冷ます時間が欲しかった。
コロバ方向に足を向けて、フォートエリアの路地に入った。
路地に入ったとき、前方で派手な音がした。
ダッバーワーラーがいた。
ムンバイ名物の弁当配達人だ。
毎日5000人以上が、この街の決まったルートを自転車で走る。
ランチボックスを配り、回収し、洗い、また配る。
そのサイクルの精度は、鉄道より正確だと言われている。
その荷台が、石畳の段差でバランスを失った瞬間だった。
アルミのランチボックスが次々と路上に落ちた。
丸い容器が石畳の上を転がって、四方に散らばっていく。
配達人が自転車を支えながら困り果てた顔をしている。
俺は自然に動いていた。
しゃがんで、足元の弁当箱を拾い上げる。
隣でも誰かが同じことをしていた。
白いブレザーを着た女性だった。
ヒールを履いたまましゃがんで、迷わず弁当箱をかき集めている。
ためらいがない。当たり前のことをしているような動き方だった。
ブレザーの胸元で社員証が揺れていた。
遠くて読めなかったが、英語でロゴが入っているのは見えた。
荷台を元通りにするのに、5分もかからなかった。
ダッバーワーラーがヒンディー語で礼を言った。
女性が短く何か答えた。配達人が走り去った。
「ランチが届く時間は守らないといけない」
女性が英語で言った。
独り言のようでもあり、俺に言っているようでもあった。
「そうですね」と俺も英語で答えた。
彼女が俺を見た。
少し意外そうな顔をした。
日本人だと思っていたのかもしれない。
167センチほどある。
黒い長い髪が肩で揺れている。
鼻筋が通っていて、細い顎のラインが印象的だ。
仕事ができそうな顔、というより、判断が速そうな顔。
同じようで、違う。褐色の肌に、白いブレザーの対比が鮮やかだった。
「お茶でもどうですか」
「もう行こうとしていたので」
彼女が指差した方向に、小さなチャイスタンドがあった。
路地の隅にある年季の入った台の上に、大きな鍋が乗っている。
マサラチャイを作るおじさんが、俺たちを見もせずに紙コップに注いだ。
30ルピー。日本円で50円もしない。
Priyaと名乗った。
タタ・モーターズ、戦略部門。
BKCのオフィスを出て、フォートエリアで会議があって、歩いて帰るところだったという。
「BKCまで歩いてですか」
「考えごとがあるときは歩く方が速い」
チャイは甘かった。カルダモンとジンジャーの香りが鼻を抜けた。
Priyaはよく話す女性ではなかった。
ただ、聞いたことには正確に答えた。
「商社の自動車部門がムンバイに来るということは、EV関連ですか」——合っていた。
俺が少し表情を動かすと、「タタでも毎日同じ議論をしている」と言った。
言い回しがわずかにブリティッシュだった。
インドの英語ではなかった。
俺は答えを与えすぎないようにした。
聞いて、待つ。
Priyaは少し考えてから話す人間だった。
沈黙を埋めようとしない。
そのリズムが心地よかった。
ムンバイの喧騒の中で、この路地だけが少し静かだった。
チャイの甘さが、口の中でゆっくり溶けた。
「ロンドンにいたことは」と俺は聞いた。
「MBAです。ロンドン・ビジネス・スクール」
「なぜ戻ってきたんですか」
「ここが好きだから」
それ以上説明しなかった。
その一言で十分だった。
30分が経っていた。
「次の予定があります」とPriyaが言った。
俺は名刺を一枚出した。
「明日の夜、Trishnaで食事しよう」
聞いていない。誘っていない。ただそう言った。
Priyaは名刺を受け取って、一度だけ俺を見た。
断るでも承諾するでもなく、ただ見た。
何かを確認しているような目だった。
値踏みでも好意でもない。
もう少し別の何かだった。
「7時に」と俺は言って、先に歩き出した。
振り返らなかった。
振り返れば、何かが変わる気がした。
【次話予告】
翌夜7時、Trishnaの前に彼女は現れた。
白いブレザーではなく、深いグリーンのワンピース。
俺の顔を見てから時計を見て「ちょうど7時ですね」と英語で言った。
その一言で、俺はこの女がどういう人間か、少しわかった気がした。

Trishna / 基本情報
Rope Walk Lane、カラ・ゴーダ、フォートエリア。
1981年創業。Ajit Kapurの家族が現在も厨房を守る。
看板料理のバター・ペッパー・ガーリック・クラブはマッドクラブを使用(時価2600ルピー前後)。
殻を割った瞬間に蟹の甘みが立ち上がり、バターとペッパーが追いかける。
この一皿を知らずにムンバイを去るのは、もったいない。



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