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帰り道は遠回りしたくなる [第2話]

  • 執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
    GENPASS 編集 三好
  • 6月20日
  • 読了時間: 4分



【第2話】 クラブと、窓の外


翌夜7時ちょうどに、彼女は来た。

白いブレザーではなく、深いグリーンのワンピースだった。

俺の顔を見てから時計を見て、「ちょうど7時ですね」と英語で言った。


その一言だった。

この女は時間を守る側の人間だ。

そして、守ったことを主張しない。確認するだけだ。


カラ・ゴーダのRope Walk Laneにあるのに、Trishnaには看板らしい看板がない。

1981年の創業以来、変わらない。

Ajit Kapurが立ち上げたこの店を、いまは息子が厨房で守っている。

外観からは想像できない。

観光ガイドには載っているが、それを知って来る客と、知らずに来る客とでは、店との関係が少し違う。


「有名なんですか、ここ」とPriyaが聞いた。

「ムンバイで魚介を食べるなら、ここ以外考えなくていい」

「来たことはありますか」

「今日が最初です」

Priyaが少し口角を上げた。

それが笑いなのかどうか、判別が難しかった。


バター・ペッパー・ガーリック・クラブを頼んだ。

マッドクラブを使ったTrishnaの看板料理だ。

価格は時価で、この日は2600ルピー。日本円で4500円ほど。


テーブルに運ばれてきた瞬間、Priyaが少し目を見開いた。

大ぶりの泥蟹が、照りのあるソースの中に沈んでいる。

バターとブラックペッパーとガーリックが溶け合った香りが、皿が置かれた瞬間に広がった。

殻を割ると、白い蟹肉が溢れた。口に運ぶ。

蟹の甘みが来て、次にバターのコクが追いかけて、最後にペッパーの熱が喉に残る。

それが一口の中で、順番通りに来る。

ソースを白いナンに吸わせて食べると、もう一度はじめから来る。


ここに来るためだけに、ムンバイに来てもいい。

そう思わせる料理というのが存在する。

これはそのうちの一つだ。


「うまい」とPriyaが言った。

英語だった。

「はい」と俺は答えた。

形容しなかった。する必要がなかった。


食事をしながら、Priyaが話した。

ロンドン時代のこと。

インドの自動車産業の現在地。

タタがEVに本格的に舵を切ったとき、社内に何が起きたか。

彼女はその渦の中にいた。

戦略部門というのは、決断の近くにいる仕事だ。

決断そのものではなく、決断を準備する側。


「Miyoshi-sanはなぜ商社に入ったんですか」

「お金になると思っていた」

「今は?」

「それだけじゃなくなった」

「それだけじゃない、の部分は」

俺は少し考えた。Priyaの目は真剣だった。試しているのではなく、本当に聞いている目だった。

「面白いからだと思います」

Priyaが小さく頷いた。

「Accha」とヒンディー語で言った。

それだけだったが、十分に思えた。


食事を終えて、外に出た。

夜のコロバは、昼とは別の顔をしていた。

「もう一軒どうですか」と俺は言った。

「いいですよ」

タージに向かった。


Harbour Barは1933年の開業だ。

タージ・マハル・パレス・ホテルの1階にある。

植民地時代の面影が残る重厚な内装に、年季の入ったカウンター。

アジア最古クラスのバーと言われている。

窓の正面に、ゲートウェイ・オブ・インディアが見える。


ジントニックを頼んだ。

Priyaはマンゴーを使ったカクテルを選んだ。


窓の外に、海があった。

1911年に建てられたゲートウェイのアーチが、夜の照明の中に浮かんでいた。

かつてイギリスの客船が出入りした玄関口は、いまは観光客が写真を撮る場所になっている。

ただ夜に見ると、昼間とは少し違う顔をしている。

重さがある。


「ここから見るムンバイが、一番好きです」

Priyaが言った。窓の方を向いたままだった。

「そうですか」

「もう一度来たい。この窓から」

俺は何も言わなかった。

グラスを置いて、時計を見た。

「Masqueは水曜が空いています」

Priyaがこちらを見た。

「明後日ですね」

「そうです」


また聞いていない。

また誘っていない。

Priyaは少しの間、窓の外を見た。

それから「わかりました」と英語で言った。


店を出た。

ゲートウェイ・オブ・インディアの前の広場は、夜でも人が多かった。

観光客、地元の若者、アイスクリームを売る屋台。

ムンバイはいつでも誰かが起きている街だ。


タクシーを呼んだ。

乗り込む前に、Priyaが振り返った。

「Miyoshi-san」

「はい」

「なぜいつも先に決めるんですか」

俺は答えなかった。

答える必要がないと思った。

それに、答えを持っていなかった。



【次話予告】

Masqueのコースが終わったあと、「部屋からゲートウェイが見える」と俺は言った。

Priyaは何も言わなかった。

先に立ち上がって、タクシーに手を挙げた。

俺はその後を追った。




Harbour Bar / 基本情報

Taj Mahal Palace Hotel内。

1933年開業、アジア最古クラスのバー。

正面の窓からゲートウェイ・オブ・インディアとアラビア海が見える。

重厚な植民地時代の内装は変わらない。

ここから見えるムンバイの夜は、昼間とは別の顔をしている。



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