山田には、言えない [第1話/全4話]
- GENPASS 編集 三好

- 5月22日
- 読了時間: 4分

【第1話】 ラウンジで、山田が動いた夜
シンガポールに来て3日目になる。
今回は山田を連れてきていた。入社6年目、28歳。
仕事は丁寧で、上を立てることを知っている。
ただ、女の前では少し力んでしまう。
それ以外は悪くない部下だ。
EV充電インフラのアジア展開で、シンガポールは東南アジアの拠点候補として動いている。
政府の補助金制度が整っていて、複数の政府系企業と日系企業を3日で回った。手応えはあった。
夜、仕事を終えてThe Fullertonのラウンジに座っていた。
シンガポール川に面した旧郵便局の建物を改装したホテルで、
白い石柱が並ぶファサードは英国植民地時代の威厳を保っている。
「The Courtyard」はそのアトリウム吹き抜けの中心にある。
薄暗い照明に、白いドレスコードが揃った客が並んでいた。
出張でここを選ぶのはビジネス層が多い。
ラウンジにいる人間の顔つきが、それを教えてくれる。
山田がシングルモルトを飲みながら話していた。
今日の商談のことを。
明日の予定のことを。
よく喋る夜だった。
俺はグラスを持って、聞いていた。
出張先の夜に部下と飲むことは悪くない。
ただ、こういう夜の山田は少し疲れる。熱量がある。
それは良いことだが、静かに酒を飲みたい夜には重い。
彼女に気づいたのは、山田が2杯目を頼んだあたりだった。
隣のソファに、1人で座っていた。
白いシャツに、淡いベージュのパンツ。
スマートフォンを持ちながら、画面を見ていなかった。
視線がどこか遠くにあった。
旅の終わりにある人間の目だ。
何かを確認しようとしているのか、ただ漂っているのか、自分でも分からない状態の目。
こういう女がいる。一
人でいる場所に馴染んでいながら、完全には馴染んでいない女。
山田がすぐに動いた。「お一人ですか」と言った。
顔を上げた女が「そうです」と言った。
「俺たちも暇なんで、よかったら一緒にどうですか」
俺はグラスを持ったまま、山田の背中を見ていた。
動かなかった。こういうとき、動く必要がない。
山田が前に出ているとき、俺は後ろにいればいい。それが自然だ。
前に出た男が先に消費される。
残った男が、最後に見える。
そういう構造を、俺は経験で知っていた。
「シンガポール来るの初めて?」
「何日いるの?」
「明日帰るの?」山田の質問が続いた。
彼女は愛想よく答えていた。28歳。
フリーのグラフィックデザイナー。
東京から来た。4日間の旅で、明日が最終日だという。
「一人旅は初めてですか」と山田が聞いた。
「シンガポールは初めてです。一人旅は2回目。」
「ということは好きなんですね」
「慣れてきました、くらいかな。」
山田が笑った。
距離を詰めていこうとするときの笑い方だ。
俺は聞いていた。
しばらくして、彼女が俺の方を見た。
会話に入っていない男が隣にいることに、ようやく気づいたような目だった。
自己紹介した。
「三好さんはどんなお仕事ですか」と彼女は聞いた。
山田よりも俺に向けて。聞き方が違った。
山田への愛想と、俺への問いとでは、目の向き方が少し違った。直感が告げていた。
ユイ、と名前を教えてもらったのは、3杯目に入った頃だった。
顔が幼かった。童顔とは少し違う。
パーツは整っているのに、どこか抜けているような柔らかさがある。
目が大きく、笑うと少し口元に丸みが出る。
それでいて、白いシャツの上からでも分かるくらい胸元の存在感があった。
細い体に似合わない重さが、そこだけにある。
幼い顔と、女の体の、そのアンバランスさが視線を引き留める。
山田はもう夢中だった。
それは隣に座れば誰でもそうなる話だと、俺は思った。
「明後日のフライトは何時」と俺は聞いた。
「昼過ぎなんで、明日は午前中から動けます。」
「じゃあ朝、時間ある。ホーカーに行ったことある?」
「チキンライスは食べましたけど、ホーカーは行ったことなくて。」
「一緒に行きますか。」
山田が俺を見た。
俺が動くとは思っていなかったのだろう。
少し目が丸くなった。
ユイは少し笑って「行きたいです」と言った。
躊躇がなかった。迷いがなかった。
山田との3時間の会話より、俺の一言の方が早かった。
そういうことは起きる。なぜかはわからない。ただ、起きる。
動かなかった男が最後に動いたとき、女はそちらを向く。
理由を分析するより、事実として受け取る方が正確だ。
【第2話】 チキンライスと、視線の話 に続く。

Maxwell Food Centre(マクスウェル・フードセンター)/基本情報
住所: 1 Kadabar Road, Chinatown, Singapore
おすすめ: 天天海南鶏飯のチキンライス(S$10〜)
特徴: チャイナタウン近くに位置する老舗ホーカーセンター。
「天天海南鶏飯」はシンガポール元首相が世界一と評したチキンライスの名店として知られる。
開店前から行列ができる。
地元民と観光客が混在する最もローカルな食体験ができる場所。



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