山田には、言えない [最終話]
- GENPASS 編集 三好

- 5月25日
- 読了時間: 5分

【第4話】 3人で飲んだ、あの春
翌朝、朝食の時間に山田と顔を合わせた。
The Fullertonのダイニングには、山田がすでに座っていた。
「おはようございます」と言った。
昨夜のことを引きずっていない顔だった。
若さとはこういうことだ。
傷が深くても、朝になると回復している。
俺はコーヒーを頼んだ。
エッグベネディクトが来た。
食べながら山田と話した。
今日の商談のこと。
帰りの飛行機のこと。
普通の話だった。普通にできた。
コーヒーが2杯目になった頃、ユイが現れた。
「あ、偶然」と山田が言った。
本当に偶然だと思っている顔だった。
ユイが「おはようございます」と言って席についた。
3人で食べた。会話が弾んだ。
ユイは昨夜とは違う顔をしていた。
旅の終わりの、澄んだ顔。
俺と目が合った。一秒だった。
何も言わなかった。それでよかった。
「東京でも飲みましょう」と山田が言った。
「ぜひ」とユイは言った。俺を見た。
俺は「そうしよう」と言った。
山田は何も知らなかった。
知らないまま笑っていた。
その笑顔が、一番重かった。
俺が山田だったら、誰かに言えただろうか。言えない。
誰にも言えない話が、人生にはある。
帰国後、約束は本当に果たされた。
3人で新宿で飲んだ。渋谷で飲んだ。
山田はシンガポールの続きのようにユイに話しかけ続けた。
ユイは笑って受け流した。
山田が「やっぱりユイさんってかわいいですよね」と俺に言った夜があった。
「そうだな」と俺は言った。
山田が何も知らないまま言う言葉は、いつも少しだけ、どこかに刺さった。
3人でいる夜、ユイは俺と山田を同じように扱った。区別しなかった。
それは正しいやり方だった。
でも俺には分かった。
乾杯のとき、ユイのグラスが向く角度が、少しだけ俺の方に傾いていた。
気づいているのは俺だけだった。
山田は自分のグラスを見ていた。
帰り道、山田が先に電車に乗った夜、俺とユイが2人で残った。
「今日、山田くんまた頑張ってたね」とユイは言った。
「応援してやれ。」
「三好さんがそれ言う?」
俺は答えなかった。
タクシーを止めた。2人で乗った。
そういう夜が、春の間に何度かあった。
3人でいる夜と、2人になる夜が交互に続いた。
3人の夜は表の時間で、2人の夜は裏の時間だった。
裏の時間のことを、山田は何も知らなかった。
知らない山田を挟んで、俺とユイは同じテーブルに座り、同じ酒を飲んだ。
それが何を意味するのか、考えなかった。
考え始めると、止まれなくなる気がした。
ユイも同じだったのかもしれない。聞かなかった。
ある夜、山田と2人で飲んでいるときだった。
「ユイさんのことが本当に好きなんですよ、俺。」
グラスを置いた。
「三好さんから何かアドバイスできませんか。ユイさんって、三好さんのこと信頼してるじゃないですか。何か聞いてたりしますか。」
俺は少し考えた。
嘘をつく必要はないが、全部を言う必要もない。
「山田みたいな男は、誠実にやるのが一番だ」と俺は言った。
嘘ではなかった。
山田は「そうですよね」と言って、うなずいた。真剣な顔だった。
「諦めた方がいいですか」と山田は言った。
「そんなことは俺には分からない」と俺は言った。
それも嘘ではなかった。
分からないのは本当だった。
俺には、答える資格もなかった。
その夜帰って、ユイへの最後のLINEを読み返した。
「今日楽しかった」と書いてあった。
翌日、返事を書かなかった。翌々日も書かなかった。
ユイから「最近どうしてますか」と来た。既読にした。
返事を書こうとした。書けなかった。
書ける言葉が何ひとつ出てこなかった。
「元気だよ」と書けばよかった。
それだけでよかった。でも書けなかった。
連絡は、そのまま止まった。
ユイからは2度ほど来た。
2度目は「最後に一回だけ会えますか」だった。
既読にして、返事をしなかった。
その後、来なくなった。
山田は今も、ユイのことが好きだと思う。
時々、仕事の場でユイの話をする。
「最近連絡してるんですけど、返事が来なくて」と言う。
「そうか」と俺は言う。
それだけだ。
何が起きたかを山田に言えない理由は、俺が悪いからだけではない。
言ったところで、山田が傷つくだけだ。
俺が楽になるために、山田を傷つけることはしない。それだけのことだ。
山田の顔を見るたびに、何かがずれる感覚がある。
名前をつけられない感覚だ。
罪悪感とも少し違う。
ずれたまま元に戻らない何かが、胸の中にある。
俺はユイの体を知っていて、山田は知らない。
その差が、どんな言葉にも変換できないまま、ただそこにある。
シンガポールで山田が先に動かなかったら、どうなっていたか。
考えても意味がない。
山田が動いたから、ユイは俺の方を見た。そういう話だ。
俺は何もしていない。何もしなかったのに、何かが起きた。
それだけの話だと、今は思っている。
思わないと、明日も山田と同じオフィスに座っていられない。
シンガポールに、また行くことになるかもしれない。
次に行くとき、山田を連れていくかどうか、まだ決めていない。
<完>

The Fullerton Hotel Singapore(ザ・フラートン・ホテル・シンガポール)/基本情報
住所: 1 Fullerton Square, Singapore
特徴: 1928年建設の旧シンガポール郵便局を改装した格式あるラグジュアリーホテル。
新古典主義の白い石柱が並ぶファサードはシンガポール川沿いのランドマーク。
ビジネス層を中心に長く愛され、ラウンジ「The Courtyard」はアトリウム吹き抜けの中心に位置する。
出張での利用にも対応した利便性を持つ。



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