君の名は希望 [第3話]

更新日:8月24日

【第3話】 帰り道は遠回りしたくなる
朝、書類をもう一度開いた。
AmpèreLinkの設備投資資料、展開スケジュール、資本構成の開示レポート。
数字は変わっていなかった。
整合が取れない部分も変わっていなかった。
昨日の「最終調整中」も変わっていなかった。
断ることは、昨夜の時点で決めていた。
理由は数字だけじゃなかった。
何かが引っかかっていた。
担当者の笑顔が多すぎる。
答えが滑らかすぎる。
資料の量は多いのに、核心から遠い。
長年、商談を繰り返してきた経験の中で身についた感覚があった。
うまく言語化できないものだったが、外れたことがなかった。
AmpèreLinkのオフィスへ向かった。
担当者は昨日と同じ笑顔で出迎えた。
コーヒーが出た。
「本日は前向きなご回答をいただければと」
「持ち帰って社内で検討します」
と俺は言った。
「決定には時間がかかりますが、ご了承ください」
笑顔が一瞬だけ硬くなった。
「具体的なスケジュール感はいかがでしょうか」
「2週間から1ヶ月は見ていただきたいと思います」
それで終わった。
2週間で返事はしない。
双方ともわかっていた。
オフィスを出ると、外の空気がひんやりしていた。
帰りのタクシーの中で、窓の外を流れる運河を見た。
アムステルダムは水の街だと改めて思った。
どこを見ても水がある。
水は答えを教えてくれない。
ただ映している。
夕方、灯から連絡があった。
「よければ少し歩きませんか」
Jordaan地区で落ち合った。
Prinsengracht沿いの細い道を歩いた。
夕暮れが運河に落ちていた。
自転車が何台も通り過ぎた。
二人とも、しばらく黙って歩いた。
橋の上で、灯が立ち止まった。
Prinsengrachtの水面が、夕暮れの最後の光を受けていた。
「今日、AmpèreLinkとお話されましたか」
「ええ」
「どうでしたか」
「持ち帰ることにしました」
灯は欄干に手を置いて、水面を見た。
少し間があった。
「三好さんは、正しい判断をすると思います」
「なぜそう思うんですか」
答えは来なかった。
風が来た。
黒髪が少し揺れた。
なぜ知っているのか、聞かなかった。
聞けなかったというより——
なんとなく、聞かなくていいような気がした。
それより、この橋の上にもう少しいたかった。
Jordaanの小さなカフェで夕食を取った。
観光客向けではなく、街の人間が夜に入るような場所だった。
ビールと、温かいスープと、黒パン。
それで十分だった。
話しながら、なぜか時間の感覚がなくなった。
AmpèreLinkの話はしなかった。
灯の仕事の話も、俺の商談の話も、出てこなかった。
アムステルダムの街のこと、修復の仕事のこと、日本にいた頃のこと——
そういう話を、少しずつした。
「ここに来たのは、日本から逃げてきたからです」
と灯が言った。
突然だった。
「逃げてきた?」
「あの頃はそこから離れる必要があって。遠ければ遠いほどいいと思って、アムステルダムにしました」
「今も逃げていますか」
灯は少し考えた。
「今は違います。逃げているより、ここで守っているものがある、という感じです」
それだけだった。
続きは言わなかった。
俺はビールを一口飲んだ。
この3日間、彼女はずっと絵の前に立っていた。
こちらからは見えない何かを、ずっと見ていた。
今夜初めて、少しだけ背中を向けていた。
「帰りましょうか」と灯が言った。
「ええ」
二人とも、どちらへ向かうかは言わなかった。
コートを手に取って、店を出た。
夜の運河沿いを歩いた。
ホテルの方向と、灯が普段向かう方向は、たぶん違う。
でも彼女は俺と同じ歩調で、同じ方向を歩いた。
どちらも口にしなかった。
橋を渡るたびに、水の匂いがした。
Herengrachtが見えたとき、灯が先にエントランスへ向かった。
部屋に入ると、窓の外に運河が見えた。
夜の水面は静かだった。
灯が眼鏡を外した。
コートを脱いだ。
それだけで、3日間見てきた彼女とは別の人間になった。
ずっと何かを守っていた人間が、今夜だけは守るものを置いてきた、そういう顔をした。
動いたのは、灯が先だった。
細い指が胸元に触れた。
確かめるように、ゆっくりと。
俺は動かなかった。
彼女が来るまで、動かなかった。
首筋に顔を埋めると、3日分の香りがした。
ひんやりした皮膚の奥に体温があった。
薄い肩が手のひらに収まった。
鎖骨の下、胸の丸みがそのまま手の中に来た。
白かった。温かかった。
灯の息が変わった。
腰の細さが骨まで伝わってきた。
太腿の内側が滑らかだった。
指を埋めると、奥に熱があった。
灯が低く声を上げた。
この3日間、聞いたことがない声だった。
どこまでが彼女でどこからが俺なのか、わからなくなった頃——
灯が、ふっと息を吐いた。
緊張でも、動揺でもない。
何かが、ゆっくり解けていく音だった。
明け方近く、灯が目を開けた。
「一つだけ言ってもいいですか」
「ええ」
「AmpèreLinkのことは」
と彼女は言った。
「わたしは直接関係しているわけではありません。でも——関係がないとも言えません」
それだけだった。
続きを話す気はないようだった。
「わかりました」
と俺は言った。
「……それだけですか」
「それだけです」
灯はしばらく黙っていた。
それから、また目を閉じた。
窓の外、運河が白み始めていた。ア
ムステルダムの夜明けは、静かだった。
【次話予告】
翌朝、目が覚めると灯はいなかった。テーブルの上に、小さな紙が一枚あった。
何も書いていなかった。空港へ向かった。
スキポール空港の搭乗ゲートで、東京行きを待ちながら、
なぜ彼女がここにいるのかをまだ考えていた。
答えは出なかった。

Prinsengracht(プリンセン運河)、Jordaan地区
アムステルダムに張り巡らされた環状運河のひとつ。Jordaan地区を流れるこの運河沿いには、17世紀から続く細い煉瓦造りの家屋が並ぶ。夕暮れ時、橋の上から水面を見ると、街全体の光が揺れている。観光客が引いた夜は、自転車と地元の人間だけが通り過ぎる。

Café 't Smalle(Egelantiersgracht 12, Jordaan)
1786年創業。アムステルダム最古のブラウンカフェのひとつ。煤けた木の天井、古いビールポスター、石畳に面したテラス席。オランダのビール(€4〜)とソーキャンプブロード(骨付き豚のスープ)が定番。観光地化されておらず、夜は地元の常連がほとんど。運河に突き出した桟橋席は、アムステルダムで最も静かな場所のひとつ。



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