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君の名は希望  [第2話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
8月22日
読了時間: 5分

更新日:8月24日




【第2話】 描かれていないものの話をした


カーテンを少し開けると、運河が見えた。

朝の光の中で水面が鈍く光っていた。

空は低く、白かった。ア

ムステルダムの朝は明るいのに、どこか薄暗かった。

光量があるのに、陽が刺さない。

緯度のせいかもしれない。


シャワーを浴びながら、昨夜のことを考えた。

灯が言った言葉

——「チアロスクーロは、見せたくないものを隠す技術でもあります」——

を商談相手に当てはめてみた。

答えは滑らかすぎた。

それはまるで、丁寧に準備された影だった。


灯から連絡があったのは、午前8時過ぎだった。

「10時に職員入口でお待ちしています。表から入る必要はありません」

裏口から入るということが、それだけで何かを意味していた。


職員通路は観光客が歩く廊下とは別の動線だった。

灯に案内されて、修復室の前に立った。

厚いガラスの扉の向こう、数人の専門家が白い作業服を着て、大きなキャンバスの前に座っていた。

照明が普通の部屋と違った。

青みがかった白い光が、絵の全面に当たっていた。


「修復用の照明です」

と灯は言った。

「絵の表面の状態を正確に見るために、特定の波長に調整してあります。亀裂、過去の修復の跡、何が塗り重ねられているか。通常の光では見えないものが見えます」

「真実の光みたいですね」

と俺は言った。


灯は少し間を置いた。

「見たくないものも、見えます」

それ以上は言わなかった。


「夜警」の前に立った。

修復室を出てから、常設展示のエリアに入った。

観光客がいた。

灯はその中を静かに歩いた。

案内するというより、自分が歩くついでに連れていく、という感じだった。

解説はしなかった。

ただ絵の前に立って、少し間を置いて、次へ進んだ。


夜警はレンブラントが1642年に描いた群像画だ。

市民警備隊の出動場面を描いており、この美術館の所蔵作品の中でも最も知名度が高い。

縦363cm、横437cm。

教室の壁一面がそのまま一枚の絵になったような大きさだった。

暗い背景から、光の中の人物が浮き上がっている。

主役の2人だけが照らされている。

残りは影の中にいる。


「チアロスクーロ」

と灯は言った。

「光と影の強いコントラストで、見せたいものを際立たせる技法です。ただ正確には——」

少し止まった。


「見せたくないものを、隠す技術でもあります」

「絵の中で?」

「絵の中でも、そうでなくても」

彼女の目が、一瞬だけ俺のほうを向いた。



午後、AmpèreLinkのオフィスへ向かった。

南部の新興エリア、ガラス張りのビルに入っていた。

ロビーは清潔で、社員は若く、スライドは洗練されていた。

好印象になるよう設計された空間だった。


資金構造について、今日は踏み込んで聞いた。

「展開速度と開示資本規模のあいだに整合がとれない部分があります。とくに昨年、ベルギーとデンマーク2カ国を同時展開された際の設備投資の出所を確認したい」

担当者は笑顔を崩さなかった。

「ご指摘はよくわかります。その点は現在、投資家との最終調整中でして、正式契約前にすべてクリアにする予定です」


最終調整中。

それで終わった。

次の話題に移った。

手応えがなかった。

帰りの車の中で、さっきの返しを思い返した。

「最終調整中」というのは、答えでも否定でもない。

あの滑らかさは訓練されている。

誰かに教わった言葉だ。



夜、ホテルに戻ってからSpectrumへ下りた。

Waldorf Astoria地下に入るミシュラン2つ星のレストラン。

照明は落とされ、テーブルクロスは白、天井は高かった。

灯も来た。

「夕食、ご一緒してもよければ」と昼間に言っていた。

断る理由がなかった。


オランダ産の北海カレイをシェリー酢で締めたもの、薄い舌の上で旨みだけが残った(€42)。

仔牛のロース、白アスパラと春のハーブソース——

低温でゆっくり火を入れた肉は、切ると少し赤く、噛むと締まっていなかった(€62)。

フリースランのチーズを使ったスフレ、焦がした蜂蜜が細くかかっていた。

素材に何もしていないように見えて、口に入れると何かが変わっている。

土台に時間がかかっている料理だった。


ワインを二杯目に差し掛かったところで、灯が言った。

「AmpèreLink、少し調べてみましたか」

「調べています」

と俺は言った。

「引っかかることがいくつか」

「そうですか」

それだけだった。

追わなかった。


「美術館には、もう4年になりますか」

「ええ」

「日本には、もう戻らないんですか」

灯はグラスを傾けた。

少し間があった。

「今のところは、ここにいます」

「今のところ、というのは」

「今のところ、ということです」

笑顔が戻った。

でもその笑顔の奥に、昨夜と同じ遠さがあった。



ホテルのエントランスで別れた。

明日また会う予定は立てていなかった。

それでも、また会うだろうという感覚があった。

根拠はなかった。

確信だけがあった。


エレベーターで上がりながら、今日一日を振り返った。

「描かれていないものを、見ろ」ということだったのか。

彼女がそう言いたかったのか、

俺がそう読みたかっただけなのか、

まだわからなかった。



【次話予告】

商談最終日。AmpèreLinkから「前向きな返事を」と圧をかけられた。

断る準備はできていた。夕方、灯と運河沿いを歩いた。

Jordaanの橋の上で、彼女が立ち止まった。

「三好さんは、正しい判断をすると思います」。

なぜそう思うのかは、聞かなかった。




アムステルダム国立美術館 修復・保存部門(Museumstraat 1)

通常は非公開の修復室。専門家が絵の保存処理を行うこの空間では、青白い特殊照明が作品の全面に当てられている。普通の光では見えない亀裂、重ね塗り、過去の修復痕が浮き上がる。絵画が持っている時間の層を見る場所。表から入っても見えない、美術館の裏側。

Spectrum(Waldorf Astoria Amsterdam地下、Herengracht 542-556)

ミシュラン2つ星。オランダ産食材を軸に、季節ごとにメニューが変わる。北海の魚介、地方産の肉と乳製品、ハーブ。素材に何もしていないように見えて、口に入れると何かが変わっている料理が並ぶ。テイスティングコース€175〜。静かな地下空間で、アムステルダムの夜とは別の時間が流れている。



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