君の名は希望 [第1話 / 全4話]

更新日:8月24日

【第1話】 7割が、影だった
アムステルダムには初めて来た。
スキポール空港からトラムで中央駅へ、そこから歩いた。
最初の運河を渡ったとき、水面が夕暮れの光を受けて金に近い色をしていた。
ラスベガスとも東京とも違う種類の光だった。
何百年も前から同じ場所にある光だ、となぜか思った。
街全体が水の上に乗っている。
運河が道路と並走し、橋が至るところにある。
自転車の多さに最初は面食らった。
歩行者より多い。車より多い。
この街では自転車が優先だと、渡りかけた横断歩道を引き戻されながら理解した。
今回の商談相手は、AmpèreLink B.V.という会社だった。
アムステルダム南部に本社を構え、欧州圏9カ国に急速充電ネットワークを展開している。
創業6年、次のステップとして日本市場への参入を検討しており、現地流通パートナーを探している——
それが表向きの話だった。
規模は十数億。悪くない案件に見えた。
ただ、上司はこう言った。
「資金の出所を確かめてこい」
ホテルはHerengracht沿いにあった。
Waldorf Astoria Amsterdam——
17世紀のカナルハウス5棟を改装した建物が横に連なっている。
外壁に蔦が絡み、重い木製のドアをくぐると古い邸宅の空気が残っていた。
チェックインを済ませて部屋に入ると、窓の下にHerengrachtの運河が見えた。
水面は静かで、対岸の並木がそのまま映っていた。
PCを開いた。
AmpèreLinkの財務情報を改めて確認した。
設立6年で9カ国への展開。
数字だけ見れば申し分ない。
だが開示されている資本規模では、その速度は説明できなかった。
充電インフラの設備投資は安くない。
土地、工事、機器、電力契約。
それを上回る速さで展開しているとすれば、表に出ていない資金源がある。
どこから来ているのか。
それがわからなかった。
夕方、メールが届いた。
AmpèreLink担当者から。
「本日19時、アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)の後援者レセプションにご招待します。弊社も協賛しておりますので、ぜひ」
本棟の左翼、特別展示室に十数名が集まっていた。
白ワインのグラスを手にしたビジネスパーソンたちが、絵の前で低い声で話していた。
AmpèreLinkの担当者が近づいてきて挨拶をした。
若い男だった。話がうまかった。
笑顔が多い人間は、笑顔で何かを隠せる人間だと俺は経験上思っている。
部屋の端に、ひとり立っている女性がいた。
黒髪をうしろでまとめ、細い銀縁の眼鏡をかけていた。
他の出席者とは少し違う佇まいだった。
客ではないとすぐにわかった。
壁の絵を見ていた。
他の全員が誰かと話しているなか、一人だけ絵の前に立っていた。
「日本の方ですか」
俺が近づいたのではなかった。
彼女が先に声をかけてきた。
「ええ」
「スタッフです。今夜は修復担当として立ち合いで」
名前を言った。
「灯(あかり)と申します」
「照明みたいな名前ですね」
と俺は言った。
「よく言われます」
笑ったが、目は笑っていなかった。
白ワインを持ったまま、隣に立った。
壁に掛かっていたのは、レンブラントの習作だった。
17世紀オランダを代表する画家で、
暗闇の中から人物を浮かび上がらせる光の使い方から「光と影の魔術師」とも呼ばれている。
「レンブラントですか」
「習作です。本物は隣の部屋ですが、今夜はこちらで」
「光の使い方が特徴的ですね」
「チアロスクーロと言います。光と影の強いコントラスト。レンブラントの場合、光が当たっている部分より、影になっている部分の方が多い」
「影の方が多い」
「画面の7割が暗いこともあります。でも、その暗さがあるから、光が光に見える」
一瞬だけ、彼女の視線が絵から離れて俺の方を向いた。
レセプションが終わって、Herengrachtへ出た。
灯も同じ方向に歩いていた。
「Jordaanの方に行きますか」と聞いた。
「少し歩こうかと思っていて」
と彼女は言った。
一緒に歩いた。
運河沿いの石畳は古く、自転車が何台も通り過ぎた。
夜の空気は冷たかった。
橋を渡るたびに水の匂いがした。
Jordaan地区に入ったところに、小さな酒場があった。
格子窓、木のカウンター。
地元の人間しかいない。
「ここはご存じですか」と灯が言った。
「初めてです」
「ジェネバーという蒸留酒があって。オランダのジンに似ていますが、麦芽の風味が強い。少し古い味がします」
ジェネバーを頼んだ。
細長いグラスに、無色透明の液体が注がれた。
口に含むと、穀物の香りのあとにほのかな甘さが来た。
強さの中に角がなかった。
「アムステルダムはご出張で?」
と灯が聞いた。
「ええ。商談があって」
彼女はグラスを傾けた。
「AmpèreLinkの件ですよね」
俺はグラスを持ったまま、一拍おいた。
「なぜ?」
「招待客リストに」
と灯は言った。
「日本の自動車関連商社の方がいらっしゃると書いてあったので」
それだけだった。
彼女もそれ以上言わなかった。
答えになっていないとわかっていた。
なぜリストを確認したのか。
なぜ気にかけたのか。
聞けなかった。聞かなかった。
二杯目を頼んだ。
灯は断った。
細い指でグラスの縁を撫でていた。
何かを考えているような沈黙があった。
でも俺に向けたものではなかった。
もっと遠いところを見ていた。
「明日もこちらにいらっしゃいますか」
「あと3日は」
「よければ、美術館を少しご案内できます」
と彼女は言った。
「表に出ない場所も含めて」
「それは嬉しい」
灯は頷いた。
グラスを置いて、外套を手に取った。
帰り際、アムステルダム国立美術館の名刺を出した。
「よければご連絡ください」
「では、おやすみなさい」
店を出ると、夜の運河沿いに霧が出ていた。
橋の灯りが水面で滲んでいた。
窓の外、運河に灯が映っていた。
【次話予告】
翌朝、灯からメッセージが届いた。「10時に職員入口でお待ちしています」。
商談2日目、AmpèreLinkのオフィスで資金構造について踏み込んだ。
答えは滑らかすぎた。午前、灯と美術館で待ち合わせた。
絵の前に立ちながら、彼女が言った。
「チアロスクーロは、見せたくないものを隠す技術でもあります」

Waldorf Astoria Amsterdam(Herengracht 542-556)
17世紀のカナルハウス5棟を改装した5つ星ホテル。「貴族の運河」と呼ばれるHerengrachtに面し、アムステルダムで最も格式のある立地のひとつ。アールデコ調の内装と石造りの外壁が共存し、窓からは運河と対岸の並木が見える。夜になると水面の反射が部屋の中に揺れる。

アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)(Museumstraat 1)
1885年創設。レンブラントの「夜警」、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を所蔵するオランダ最大の美術館。通常の開館時間外に入ると、昼間とはまったく異なる静けさがある。照明が絞られた展示室で絵と向き合うと、400年前の光が今も生きている気がする。

Café de Dokter(Rozenboomsteeg 4, Jordaan周辺)
1798年創業。アムステルダムに現存する最古のブラウンカフェのひとつ。低い天井、煤けた木の梁、常連だけが知っているような雰囲気。ジェネバー(オランダ産麦芽蒸留酒、€4〜)を細長いグラスで飲む。口当たりが柔らかく、ウォッカよりも古い味がする。



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