君の名は希望 [最終話]


【最終話】 君の名は希望
目が覚めると、灯はいなかった。
テーブルの上に、小さな紙が一枚あった。
何も書いていなかった。
窓の外、Herengrachtに朝の光が当たっていた。
水面は静かだった。
灯がいた側の枕に、かすかに香りが残っていた。
それだけが、昨夜が本物だったことの証拠だった。
チェックアウトを済ませた。
ポーターがスーツケースを運んだ。
エントランスを出る前に、Herengrachtをもう一度見た。
対岸の並木が水に映っていた。
4日前に着いたときと同じ光景だった。
でも何かが違った。
同じ光の中に、昨夜の影が混じっていた。
スキポール空港は広かった。
搭乗ゲートのプラスチックチェアに座って、搭乗まで一時間あった。
PCを開く気にはなれなかった。
コーヒーを飲みながら、灯のことを考えた。
なぜ招待客リストを確認していたのか。
なぜAmpèreLinkを知っていたのか。
「守っているものがある」とは何のことだったのか。
「直接関係しているわけではない。でも関係がないとも言えない」——
あの言葉の意味は。
答えは出なかった。
彼女は最初から最後まで、こちら側に来なかった。
近づけば近づくほど、何かが遠くなった。
美術館の絵のようだった。
近づくほど筆跡が見えて、全体が見えなくなる。
搭乗のアナウンスが流れた。
立ち上がった。
ゲートを通りながら、もう一度だけ考えた。
あの白紙の意味を。
何も書かなかったのか、書けなかったのか、書かないと決めたのか。
わからなかった。
ただ、何も書かれていない紙を残すということは、
何かを言おうとして言わなかった、ということだと俺は思った。
それで十分だった気もした。
東京に戻った。
出張の報告書を書いた。
「AmpèreLinkについては資本構造に不透明な点があり、現時点では契約を推奨しない」という結論にした。
上司は一言、「そうか」とだけ言った。
仕事は続いた。
出張の次の案件が入った。
別の国の、別の商談だった。
灯のことは、時々思い出した。
何かの折に、ふと。
雨が降っているとき、路面が光を映しているのを見たとき。
夜、運河の映像が流れたとき。
彼女の名前が「灯(あかり)」だったことを、あらためて考えたりした。
光、という字を書く名前の人間が、あんなに影を持っていた。
連絡先は持っていた。
アムステルダム国立美術館の名刺が、財布の中にある。
でも連絡はしなかった。
するべき言葉が思い浮かばなかった。
「また会いたい」では足りなかった。
「あなたは何者ですか」では失礼だった。
伝えるべきことがわからないまま、3週間が過ぎた。
3週間後、ニュースが流れた。
「欧州当局、EV充電インフラ企業AmpèreLink B.V.を資金洗浄の疑いで調査開始」
画面を見つめた。
記事には、複数の匿名証言と内部からのリークとみられる情報が含まれていた。
当局が事前に情報を得ていたことを示す記述もあった。
灯の顔が浮かんだ。
「AmpèreLinkとは直接関係しているわけではありません。でも——関係がないとも言えません」
あの言葉が、今になって輪郭を持った。
でも輪郭だけだった。
中身はわからなかった。
なぜ俺に近づいたのか。
なぜ誘導したのか。
誰のために動いていたのか。
あるいは、俺には関係のない理由で、俺を守ったのか。
わからないままだった。
ただ確かなことが一つある。
AmpèreLinkと契約していれば、今頃この摘発に巻き込まれていた。
社名が資料に残り、調査の対象に入っていた可能性がある。
灯が何をしたのかはわからない。
でも、結果として俺は守られた。
財布の中の名刺を取り出した。
「アムステルダム国立美術館 保存修復部門」と書いてあった。
名前の下に、メールアドレス。
送ってみた。
翌日、通知が届いた。
配信不能。
そのアドレスは存在しない、とある。
美術館のドメインなのに、存在しない。
名刺をもう一度見た。
印刷は本物だった。
でも、アドレスは存在しなかった。
チアロスクーロ。
光と影の強いコントラスト。
見せたいものを際立たせる技法。
そして——見せたくないものを隠す技術。
灯がアムステルダム国立美術館にいた理由が、
本当に絵の修復だったのかどうかも、
今となっては確かめようがない。
そもそも名前が本当に「灯」だったかどうかさえ、俺は知らない。
招待客リストを見た理由も、
あの明け方の言葉の真意も、
「そこから離れる必要があった」とこぼした過去も。
全部、影の中にある。
灯という人間がどんな絵だったのか、
全体を見ることはできなかった。
でも光の当たっていた部分は、今でも覚えている。
Prinsengrachtの橋の上、夕暮れの水面を見ていた横顔。
眼鏡を外した瞬間の顔。
明け方、目を閉じる前に、小さく息を吐いた音。
「灯」という字は、光を意味する。
炎が宿り、暗い場所でも消えない。
チアロスクーロで言えば、7割の影の中に一点だけ灯る光だ。
その光がなければ、絵は何も見えない。
俺がAmpèreLinkを断ったのは、
数字の違和感だけじゃなかった。
橋の上で彼女が言った「正しい判断をすると思います」
という言葉があった。
理由はわからなかった。
でも、あの言葉が暗い場所に光を当てた。
信じる根拠になった。
彼女の名前を、今は少し違う意味で読んでいる。
君の名は——希望だった。
<完>

Waldorf Astoria Amsterdam(Herengracht 542-556)
チェックアウトの朝、エントランスを出る前に運河を振り返った。
4日前と同じ光景が、違って見えた。
ここで起きたことと、ここに残したものを、その場所は何も知らないように、静かなままだった。

スキポール国際空港(Amsterdam Airport Schiphol)
アムステルダム中央駅から直通列車で約17分。ヨーロッパ有数のハブ空港。
巨大なターミナルに、見知らぬ人間の旅が交差している。
搭乗ゲートで飛行機を待つ時間は、何かを考えるのに、静かすぎる。



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