偶然を言い訳にして [第3話]


【第3話】 ストリート57
商談は16時過ぎに終わった。
三好はオフィスを出て、まっすぐあの路地へ向かった。
食堂の店主は、仕込み中だった。
三好はスマホの翻訳アプリを開き、文字を打った。
「明日の夜19時過ぎ、この店によく来る男2人と女の子1人の3人組が来ます。その女の子、彼らに監禁されていて見張られています。食事が終わりかけたころ、女の子がトイレのふりをして立ち上がります。そのとき、裏口から外に出してやってください」
画面を差し出すと、店主は眼鏡をかけ直して読んだ。
しばらく間があった。
三好は店主の顔を見た。
店主は三好を見た。
それから、静かにうなずいた。
「アリガトウゴザイマス」と言うと、店主が同じ言葉を返した。
それから「タスケテモラッタカラ」と続けた。
発音は、あの夜と変わらなかった。
ホテルに戻り、在カンボジア日本大使館の場所を地図で確認した。
BKK1からノロドム通りを南へ、徒歩で15分ほど。
タクシーは使わない。
路地を使って近くまで隠れながら移動する。
最後だけ、大通りに出て丸見えになる。
そこは走り抜けるしかない。
明日の午前中に陽菜を連れて行く。
それだけが、今考えられる計画だった。
部屋が静かすぎた。
窓の外でプノンペンがいつも通り動いているのが、余計に遠く感じた。
本当に来るのか、という問いが一度だけ浮かんで、消えた。
あの紙の文字は、殴り書きで、でも一字も迷っていなかった。
三好はジャケットを羽織り、部屋を出た。
18時45分に、タクシーを拾った。
ストリート57の路地を指定し、エンジンをかけたまま待ってほしいと伝えた。
ドライバーはうなずいた。
路地は暗かった。
食堂の裏側にあたる一帯で、バイクも通らなかった。
タクシーのヘッドライトだけが、煉瓦の壁を照らしていた。
19時になった。
来ない。
5分が過ぎた。
まだ来ない。
監視の1人がトイレに立つタイミングが読めなかったのか、
見張りの目を盗めなかったのか——
タクシードライバーが一度バックミラーで三好を見たが、何も言わなかった。
考え始めたとき、路地の奥で人影が動いた。
走って来た。
陽菜だった。
息を切らして、素足のまま、路地の石畳を蹴って走ってきた。
タクシーのドアを開けると、陽菜は飛び込むように乗り込んだ。
三好はドライバーに言った。
「走ってください。」
バックミラーを見た。
路地の奥に人影はなかった。
車内で、陽菜は膝を抱えて座っていた。
息が荒かった。
三好は何も言わなかった。
声をかけるタイミングが、分からなかった。
街灯の明かりが断続的に車内を照らすたびに、
陽菜の横顔が浮かんだ。泣いていなかった。
長い間、何かに耐え続けてきたような顔だった。
素足の甲が見えた。
石畳を蹴った跡が赤くなっていた。
ホテルの2ブロック手前で、三好は車を停めてもらった。
路地の角にミニマートがあった。
三好は降りて数分後に戻り、ゴムのサンダルを陽菜に差し出した。
「履いて」
陽菜は何も言わずに受け取った。
それからホテルへ向かった。
手前の通りで車を止め、三好が先にロビーを確認した。
あの男たちの顔は見えなかった。
陽菜を手招きし、2人でエレベーターに乗った。
階数ボタンを押す前に、三好はロビーのほうをもう一度だけ見た。
部屋に入ると、陽菜は床に崩れるように座り込んだ。
三好はミネラルウォーターを差し出した。
陽菜は両手で受け取り、半分以上を一気に飲んだ。
「SNSで、モデルの仕事だと言われて来ました」
と陽菜は言った。
「3ヶ月、ずっとあそこにいました。スマホは取り上げられて、パスポートも施設の人が持ってます。仲間は10人くらいいて、日本人は私だけです」
三好は聞いていた。
声に感情がほとんどなかった。
3ヶ月で、出し尽くしてしまったのかもしれなかった。
「明日、大使館に連れて行く」
と三好は言った。
「午前中に行けば、その日のうちに動いてもらえるかもしれない。俺は明日の夜に帰国するから、一緒にいられるのは午前中だけだ」
「大使館まで、一緒に来てくれるんですか」
「もちろん。」
間があった。
「……偶然あの店で会っただけなのに、なんでそんなに親切にしてくれるんですか」
陽菜は言った。
「あなたも危ないですよ」
「ほっとけない。それだけだ」
陽菜はそれ以上聞かなかった。
ただ三好のほうを、しばらく見ていた。
目が潤んでいた。
泣かなかった。
しばらく沈黙が続いた。
外ではプノンペンの夜がいつも通り動いていた。
バイクのエンジン音が、窓越しに聞こえた。
三好は、明日のことを考えようとした。
大使館までの経路。
陽菜が途中で捕まった場合の対応。
自分が巻き込まれた場合の——。
施設側が三好のホテルを既に知っていた可能性もある。
そうだとすれば、今夜ここが安全かどうかも分からない。
ただ、動けるのは明日しかなかった。
陽菜が口を開きかけた、その瞬間に、三好が先に動いた。
陽菜の顎に手を添えた。
顔が上がった。
目が合った。
三好は何も言わなかった。
陽菜は小さくうなずいた。
何かが壊れた。
三好は陽菜の肩を引き寄せた。
口が重なった。
最初は静かで、次の瞬間には違った。
ずっと抑えてきたものが、陽菜の体から溢れ出してきた。
三好は止めなかった。
止める理由がなかった。
明日どうなるかが分からない2人の夜は、人を剥き出しにさせる。
2人はベッドに倒れ込んだ。
陽菜の白い肌が、暗がりの中で浮き上がった。
まだ怯えていた。
震えていた。
それでも——
むしろそれだからこそ——
三好はむさぼるように求めた。
陽菜も求めた。
理性より先に体が動いた。
声が上がった。
三好は止めなかった。
夜が深くなった。
やがて部屋が静かになった。
陽菜の呼吸が、三好の隣でゆっくりになった。
窓の外に、プノンペンの夜景が広がっていた。
三好は天井を見上げた。
明日の朝、2人でここを出る。
それだけを、考えた。
【次話予告】
翌朝、2人はホテルを出た。三好の隣を、陽菜が歩いた。
在カンボジア日本大使館まで、徒歩で15分。

地元の食堂(BKK1周辺の路地)(再訪)
3度目の訪問は、夕方の仕込み中だった。
スマホの翻訳アプリと、眼鏡をかけ直した店主のうなずきだけで、話は通じた。

ストリート57(Street 57, BKK1周辺)
夜の路地は、昼とまるで顔が違う。バイクも止まり、灯りも少なく、タクシーのヘッドライトだけが壁を照らす。
プノンペンで最も静かな時間がある場所のひとつ。



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