偶然を言い訳にして [第2話]


【第2話】 渡された計画
翌朝、三好は7時に目が覚めた。
引き出しの中の紙のことを、すぐに思い出した。
シャワーを浴び、朝食をとり、午前中の商談に向かった。
アジェンダは仕様書の細部確認と、今後のスケジュール調整だった。
三好は資料に集中した。
仕事は、仕事として片付けなければならない。
商談は、午後3時に終わった。
先方との詳細条件の詰めは順調で、数量・価格ともにほぼ合意に近い状態になった。
次回は契約書の草案を持参することになるだろう。
三好はオフィスを出て、タクシーを拾った。
ホテルへ戻りながら、スマホで時計を確認した。
15時40分。あと3時間以上ある。
ホテルに戻り、シャワーを浴び、着替えた。
デスクの上に、昨夜書いたメモ用紙を折りたたんだものがあった。
ROSEWOOD PHNOM PENH と書いたものだ。
胸のポケットに入れた。
19時ちょうどに、ホテルを出た。
夕暮れのBKK1は、朝や昼と空気が違った。
バイクの数が増え、路上の屋台が灯りをつけ始め、
どこからともなく香草のにおいが漂ってきた。
三好は昨日と同じ路地に入り、
同じ食堂のプラスチックの椅子に腰を下ろした。
地ビールを1本頼み、入口のほうを見ていた。
ただ偶然居合わせただけで、
実際来るかどうかは、分からなかった。
毎日同じ場所で食事をさせられているなら来るだろうし、昨日だけの話なら来ない。
監禁している側が日課を変えていれば来ない。
昨夜の紙の交換に気づかれていれば、そもそも来られない。
考えても仕方のないことを、考えた。
時計を確認しながら、グラスを傾けた。
19時20分を過ぎたころ、3人が入ってきた。
昨日と同じ顔ぶれだった。
女——陽菜(ひな)は三好の席の斜め前に座り、
昨日と同じように男たちの話に加わらなかった。
男たちはビールを頼み、何かを言い合って笑った。
陽菜の皿には、また手がつかないままだった。
三好は視線を合わせないようにしながら、時間をかけてグラスを空けた。
食事が半分ほど進んだころ、陽菜が席を立った。
三好はポケットの紙を、手の中に移した。
陽菜がテーブルの脇を通るとき、紙が交わされた。
一瞬の動作だった。
陽菜はそのまま店の奥へ歩いていき、
三好はグラスに視線を落とした。
男たちは話し続けていた。
しばらくして、陽菜が戻ってきた。
また三好のテーブルの脇を通った。
今度は陽菜の手から紙が三好の手の下に滑り込み、それだけだった。
2人の間には一言もなく、目も合わせなかった。
それで十分だった。
三好は15分後に会計を済ませ、席を立った。
路地を出て大通りに入り、人通りが途切れたところで紙を開いた。
殴り書きに近い、判読ぎりぎりの文字だった。
「毎晩19時に食事(外)。見張りが1人外、1人中。終わりごろに1人がトイレへ。そのすきに裏口から出る。お店の主人に、私を裏口から出してほしいとたのんでおいて。明日の19時、店の裏のストリート57の路地。タクシーに乗って待ってて。乗り込んだらすぐ走って。荷物なし。おねがいします」
三好は歩みを止め、もう1度読んだ。
計画があった。
荒削りだが、筋は通っている。
毎日の食事のルーティン、監視の隙、逃げるタイミング——自分で考えたものだ。
彼女が、あの状況の中で。
文字は細かく、行間が詰まっていた。
限られた紙の中に、できる限りの情報を押し込もうとした痕跡だった。
最後の「おねがいします」が、ひらがなで、小さかった。
ホテルに戻り、部屋に入った。
窓の外にプノンペンの夜が広がっていた。
紙をテーブルに置き、三好はしばらくそれを見ていた。
折りたたまれた紙は、ひどく小さかった。
明日の商談に追加の確認事項はない。
午前中に少し時間を使えば、午後は動ける。
19時に間に合う。
問題は、その先だ。
うまくいったとして、陽菜はホテルに来る。
そこから先——日本大使館へ連れていく流れしか、選択肢はないよな、と思った。
警察は当てにできない。
空港はパスポートなしでは動けない。
翌日か、その日のうちか——
俺は明後日の夜の便で帰国予定だしな。
救出の後、協力できるとしたら翌日くらいだろうな。
そもそも連絡先を持っているのか、
パスポートはあるのか、
施設に仲間はいるのか。
何も分からないまま、動くことになる。
三好はスマホを開き、在カンボジア日本大使館の電話番号を調べた。
緊急連絡先を、メモに控えた。
考えながら、三好は気づいた。
自分が今、出張中の商社マンとして許容される範囲を、とっくに超えていることに。
それでも、偶然気づいてしまったこの状況を見ておいて、
見て見ぬふりして引き返せる気がしなかった。
紙をたたみ直し、デスクの引き出しにしまった。
翌朝、ジャケットを羽織り、商談に向かおうとした。
エレベーターを降り、ロビーを抜け、
正面の車寄せを歩いたとき、通りの向こうに見知った顔が見えた。
あの食堂で「Ninja」と言った男のひとりだった。
男は通りの向こう側に立ち、スマホを見ていた。
三好のことを見ていたかどうか、分からなかった。
三好は表情を変えずに、足を止めずに、タクシーに乗り込んだ。
行き先を告げながら、バックミラーを確認した。
男はまだそこにいた。
スマホを開くと、在カンボジア日本大使館の緊急連絡先が画面に残っていた。
今日は19時までに、動かなければならない。
【次話予告】
商談を終えた三好は、日が傾くころに食堂へ向かった。
あの店主に、伝えなければならないことがあった。
⇒ 【第3話】ストリート57 に続く。

地元の食堂(BKK1周辺の路地)(再訪)
昨日来た理由とは別の理由で、また来た。同じプラスチックの椅子、同じ地ビール。気づけば、この店が物語の起点になっていた。

ストリート57(Street 57, BKK1周辺)
BKK1エリアに走る細い路地。昼間はバイクと歩行者が行き交い、夜は地元の食堂から漏れる灯りだけが頼りになる。観光地図には載らないが、ローカルな飲食店の裏口が並ぶ裏道で、タクシーを1台止めても誰も気に留めない。



![偶然を言い訳にして [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_2dfad731f3de4c2e87d76b4e9d14b1ec~mv2.png/v1/fill/w_980,h_735,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_2dfad731f3de4c2e87d76b4e9d14b1ec~mv2.png)
![偶然を言い訳にして [第3話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_559e5a2274fa4a15942f896fba73ae3c~mv2.png/v1/fill/w_980,h_653,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_559e5a2274fa4a15942f896fba73ae3c~mv2.png)
![偶然を言い訳にして [第1話 / 全4話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_18fb8cc64b674ab2969f7ecb21b9cc9f~mv2.png/v1/fill/w_980,h_653,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_18fb8cc64b674ab2969f7ecb21b9cc9f~mv2.png)
コメント