偶然を言い訳にして [第1話 / 全4話]


【第1話】 見知らぬ手のかたち
プノンペンは2度目だった。
3年前に同じ目的で来たとき、商談がまとまらなかった。
今回は先方が供給体制を整えたと聞いており、前回よりも条件が揃っている。
空港を出ると、湿った熱気が体にまとわりついた。
雨季のカンボジアはこういうものだと分かっていても、東京のそれとは質が違う。
光がきつく、空気が重い。
タクシーを拾い、助手席に荷物を乗せた。
渋滞の中を、ドライバーが慣れた手つきでトゥクトゥクをかわしながら走った。
道路の両側には、バイクが際限なく流れていた。
何台もが同時にクラクションを鳴らし、それでも不思議と誰もぶつからなかった。
今回のプノンペン出張は、タイの工場に供給する天然ゴム原料の調達先開拓が目的だった。
カンボジア南部に農園を持つ地場農業法人との商談で、初日の打ち合わせは好感触だった。
先方の代表は流暢な英語を話し、供給量についても前向きな回答を出した。
次回以降の詳細協議に進める見通しが立った。
ホテルはBKK1に近いモニヴォン大通り沿いのRosewood Phnom Penh にとった。
ヴァッタナック・キャピタルタワーの上層階に位置し、
モダン・クメールのデザインを取り入れた客室からは、プノンペンの夜景が見渡せる。
チェックインを済ませ、シャワーを浴び、1人で夕食に出た。
観光客が入らないような店に行きたかった。
路地を2、3本入ったところに、偶然、プラスチックの椅子と折りたたみテーブルが並んだ食堂があった。
壁には手書きのメニュー、天井には剥き出しの蛍光灯。
地元の客が入れ代わり立ちかわりしていた。
身振りで豚肉のせご飯と地ビールを頼み、スマホを開いた。
商談先への礼状の下書きを始めた。
メールの文章を整えていると、隣のテーブルで声が上がった。
欧米人の男が、ウェイターに向かって英語でまくし立てていた。
注文が違う、と言っているらしかった。
初老の店主は英語が十分でなく、困惑した顔のまま何度も頭を下げていた。
男の声は次第に大きくなった。
周囲のテーブルが静かになった。
欧米人が今にも殴り掛かりそうだったこともあり、
三好はグラスを置き、立ち上がった。
「That's enough.」
隣のテーブルに向けて、静かにそれだけ言った。
欧米人の男が振り向き、立ち上がった。
椅子を蹴るように、こちらへ向かってきた。
拳が来た。
右から、大ぶりな一撃だった。
三好は半歩引きながら、腕を外側へ流した。
男の体重が前につんのめった瞬間、手首を取り、壁のほうへ向けた。
男の顔が隣のテーブルに近づいたところで、三好は動きを止めた。
数秒、そのままだった。
三好が手を離すと、男はよろめいた。
それから財布を取り出し、紙幣をテーブルに叩きつけるように置いて、店を出ていった。
周囲のテーブルが、しんとしていた。
店の奥のテーブルで、男のひとりが相方に何かを言った。
英語でも、クメール語でもなかった。
視線が三好のほうへ向いた。
「Ninja.」
それだけ言って、2人は顔を見合わせた。
少しして、同じ店主が水差しを持って戻ってきた。
グラスに水を足しながら、小声で言った。
「アリガトウゴザイマス。」
どこで覚えたのか、発音が妙に正確だった。
三好はうなずき、スマホを手に取った。
着信があった。
東京の部下からで、明日の商談の確認事項を3分ほど話した。
電話を切り、グラスを口に運んだとき、ふと視線が動いた。
斜め前のテーブルに、若い女と目の鋭い2人の男がいた。
「Ninja」と言ったのは、この2人の男だった。
女の年齢は20代前半だろう。
黒髪をまっすぐ肩のあたりで切りそろえていた。
東南アジア系とは少し異なる顔立ちで、
さっきのウェイターの「アリガトウゴザイマス。」にも少し反応したように見えたので、
偶然かもしれないが、日本人ではないかと思った。
表情が硬かった。笑っていない。
男たちはビールのグラスを空けながら話し続けていたが、
女の皿の上には、ほとんど手がつけられていなかった。
グラスにも手を触れていなかった。
三好は視線を自分の料理に戻した。
関係のないことだ。
それでも、違和感を感じて何度か視線がそちらへ向いた。
女は一度も男たちと目を合わせなかった。
会話にも加わらず、ただ席に座っていた。
男のひとりが何か言うたびに、女は小さくうなずいた。
その動作が、どこか機械的だった。
食事を半分ほど終えたころ、女が席を立った。
トイレへ向かうらしかった。
男のひとりが何か言い、もうひとりが出口のほうに目を向けた。
女は一度も振り返らず、店の奥へ歩いていった。
しばらくして、戻ってきた。
三好のテーブルの脇を通るとき、一瞬だけ視線が合った。
女の右手が、三好の胸の前で形を作った。
親指を内側に握り込み、残りの4本の指で蓋をするような形。
シグナル・フォー・ヘルプだと、後から思い出した。
その瞬間には、ただ何かを見た、という感覚しかなかった。
白い紙片が、テーブルの端に落ちた。
女はすでに自分のテーブルへ戻っていた。
男2人と、何もなかったように食事を再開している。
三好は紙を手の平で覆った。
男たちの視線を確認してから、ゆっくりとポケットに入れた。
会計を済ませ、夜のBKK1を歩いてホテルへ戻った。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、ポケットから紙を取り出した。
ひらがなで、急いで書いたような文字だった。
「たすけてほしい! かんきんされています。もしかくまえるなら、明日の同じ時間に、とまっている場所の名前を紙に書いて、ここに来て」
三好は部屋に入り、ベッドの端に腰を下ろした。
窓の外に、プノンペンの夜が広がっていた。
遠くから、トゥクトゥクのエンジン音が聞こえてきた。
あの手の形は、ニュースか何かで見た気がした。
シグナル・フォー・ヘルプと呼ばれる、
声に出せないときの助けを求めるサインだと。
「監禁」という言葉を、心の中でもう一度読んだ。
ひらがなで書かれているのに、かえってリアルに見えた。
三好は立ち上がり、デスクに向かった。
ホテルのメモ用紙を1枚取り、ペンを走らせた。
「ROSEWOOD PHNOM PENH」
文字を確認し、小さくたたんだ。
明日、持っていくものが決まった。
【次話予告】
翌日、三好は同じ時間にその路地へ向かった。ポケットに、たたんだ紙を入れていた。
⇒ 【第2話】 渡された計画 に続く。

Rosewood Phnom Penh(Vattanac Capital, 66 Monivong Boulevard, Phnom Penh)
2021年開業。ヴァッタナック・キャピタルタワーの上層階に位置し、プノンペンの高層ビルの中でもひときわ存在感を放つ。客室はモダン・クメールのデザインを取り入れ、象嵌細工のような装飾と落ち着いた色調がビジネスと美意識の両立を演出する。プールバー「Vu」から望む夕暮れのモニヴォン大通りは、プノンペンに来た意味を思い出させる眺めだ。デラックスルームは1泊USD260〜。

地元の食堂(BKK1周辺の路地)
観光ガイドには載らない。プラスチックの椅子と折りたたみテーブルが路地に並び、壁の手書きメニューは読めなくても指さしで通じる。バイサッチュルック(柔らかく煮た豚肉のせご飯)と地ビールAnkòrで、USD5も出せばおつりが来る。地元の人間が毎晩流れ込んでくる場所で、観光客の顔はまずない。



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