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偶然を言い訳にして  [最終話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
2 時間前
読了時間: 5分



【最終話】 偶然を言い訳にして


三好が先に目を覚ました。

カーテンの隙間から、白い光が入ってきた。

プノンペンの朝は早い。

陽菜はまだ眠っていた。

三好はしばらく、天井を見た。

昨夜のことを振り返るつもりはなかった。

今日やることが、ある。


シャワーを浴び、スーツを着た。

陽菜が目を覚ましたのは、

三好がコーヒーを飲み終えた頃だった。


陽菜は洗面所へ行き、少しして戻ってきた。

顔を洗っただけで、化粧道具は何もなかった。


「久しぶりに、ぐっすり眠れました」

と陽菜は言った。

「安心したからかもしれないです」

「本番はこれからだ」

「分かってます」

「行けるか?」


陽菜はうなずいた。

昨夜より顔の色が違った。



2人はホテルを出て、大通りを避けながら路地を選んで歩いた。

BKK1の朝の空気は涼しかった。

三好が前に立ち、交差点のたびに角から先を覗いてから進んだ。

追ってくる気配はなかった。

陽菜は三好の後ろを、黙ってついてきた。

昨夜と同じ人間とは思えないほど、足元が落ち着いていた。


大使館まであと数ブロック。

路地が途切れ、ノロドム通りの大通りに出る必要があった。

ここから先は隠れる場所がない。

三好は建物の角で止まり、通りを見た。

施設側の顔は見えなかった。


「走るぞ!」


2人は大通りに出て、一緒に走った。

在カンボジア日本大使館は、ノロドム通りに面した建物だった。

白い壁に日の丸の標識。

門の前まで来て、三好は一度だけ後ろを見た。

止めてあった車から慌てて出てきて、こちらに向かって走ってくる男たちの姿が見えた。

門だけを見て、全力で走った。


「ここから先は、あの人たちは入ってこれない」


陽菜は門の向こうを見た。

それから三好を見た。

何かを言おうとして、やめた。

2人で中に入った。

ガードマンが一度だけ2人の顔を見て、通した。



受付で三好が話した。

経緯を英語で説明した。

監禁、偽求人、SNS、3ヶ月、パスポート取り上げ、仲間10人——

職員の女性はメモを取りながら聞き、表情を変えなかった。

慣れているのかもしれない。

陽菜にも直接確認を取り、「こちらで対応します」と言った。

声が落ち着いていた。


パスポートがない場合の手続き、本国への連絡、仲間の10人の情報——

やることは多そうだった。

三好は、この職員ならきちんとやってくれると思った。

陽菜が別室に連れられていく前に、三好のほうを振り返った。


「ありがとうございました。偶然を言い訳にして甘えてしまいました

声が、昨夜より落ち着いていた。


「困っているときはお互い様。気をつけて帰れよ」

短すぎる、と自分でも思った。

それ以外の言葉が出てこなかった。


陽菜は何かを言いかけた。

言わなかった。

頭を下げて、職員の後ろについていった。

廊下の角を曲がり、後ろ姿が見えなくなった。

何を言おうとしたのかは、三好には分からなかった。


三好は待合室に残った。

壁に日本地図があった。

特に意味はなかったが、しばらく見た。

仕事で来た国の大使館で、壁の日本地図を眺めている。

おかしな話だと思った。

時計を一度だけ見た。

45分が経っていた。

施設に残る仲間の情報を伝えているのだろう。

そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。


1時間ほどして、職員から「あとはこちらで対応できます」と告げられた。

三好は「よろしくお願いします」と言って

「陽菜さんに、気をつけて帰るようにと伝えてください」と付け加えた。

職員はうなずき、「ホテルまでお送りします」と言った。

三好は大使館の車に乗り込んだ。

ノロドム通りに出ると、追いかけてきた男たちの車の姿はなかった。



ホテルに着いても、すぐに部屋に上がる気分でもなかった。

三好はロビーの椅子に少し腰かけた。

陽菜が日本に帰れるか。

仲間の10人がどうなるか。

施設側が次に何をするか。

三好には関与できることが何もなかった。

自分はただ、陽菜が逃げる時に店裏でタクシーを手配して待っていた大人だ。

それだけだ、と思おうとした。

思えなかった。


部屋に戻り、荷物をまとめた。

スーツケースを開けると、商談の資料が一番上に入っていた。

天然ゴムの調達商談の資料、工場視察のメモ、取引先の名刺の束。

プノンペンで仕事をしに来た。

それは本当だった。

商談の結果も、悪くなかった。

ただ、次に同僚に聞かれたとき、

「いい出張だったか」とどう答えるかは、まだ決まっていなかった。



夕方、タクシーで空港へ向かった。

プノンペン国際空港は小さかった。

手続きを終え、出発ゲートで搭乗を待った。


機内の窓から、プノンペンが見えた。

夕焼けの中で、街が平らに広がっていた。

メコン川の支流がそこかしこで光っていた。

どこかに施設があって、今夜も誰かが閉じ込められているかもしれない。

それは三好にはどうにもできないことだった。


ただ、陽菜はもうそこにいない。

陽菜の連絡先を、三好は知らない。

名前以外、何も知らない。

それで十分だと、思うことにした。


機内食のトレーが片付けられ、消灯になった。

三好は目を閉じた。

いつの間にか眠っていた。


目が覚めたとき、窓の外は暗かった。

プノンペンはもう、どこにもなかった。


偶然を言い訳にして

いいことがある。


あの路地に迷い込んだのも、

あの食堂に入ったのも、

あの手のかたちに気づいてしまったのも、全部偶然だ。


それでも、人は動く。

動かずにいられない夜がある。


<完>



在カンボジア日本大使館

Nº 75, Samdach Hun Sen, BKK1, Phnom Penh / 月〜金 9:00〜12:00・14:00〜16:00(領事窓口)/ 緊急連絡先あり(24時間対応) ビザや緊急旅券の手続きに対応する。

困ったことがあれば、まずここに来い。

Rosewood Phnom Penh(滞在先)

Vattanac Capital Tower, 66 Monivong Blvd, Phnom Penh / USD260〜 / 55階建てのヴァッタナック・キャピタルの上層階。バーのUNAは夜景が圧倒的で、プノンペン滞在のベースとしてこれ以上の場所はそうない。



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