何度目の青空か? [第3話]

更新日:7 日前

【第3話】 わからない
渡辺から連絡があったのは、翌朝のことだった。
窓の外には青空が広がっていた。
「続きを話す。今日また会えるか」——
日本語のメッセージが短く届いた。
三好はルイーザに電話した。
「渡辺さんから連絡があった。今日また会えるか、と」。
脅迫状のことは、まだ言わなかった。
「行きます」と彼女はすぐに答えた。
昼過ぎに、ルイーザと合流してリベルダーデへ向かった。
地下鉄を降りて路地に入ったとき、首の後ろに何かを感じた。
視線だとすぐにわかった。
さりげなく後ろを確認すると、
赤いポロシャツを着た男が、同じ距離を保ったまま歩いていた。
「まっすぐ向いたまま聞いてください」
と三好はルイーザに小声で言った。
「今、尾行されています」
ルイーザが振り返りかけた。
「見ちゃダメです」
と三好はすぐに言った。
「え、本当ですか」
「次の角を曲がったら全速力で走ってください」
角が見えた。
二人で曲がった瞬間、三好は走り出した。
ルイーザも遅れずについてきた。
路地をもう一本曲がって、古い建物の陰に体を押し込んだ。
ルイーザが隣に滑り込んだ。
息が荒くなっていた。
足音が近づいてきた。
「くそっ」とポルトガル語で声がした。
足音が路地を通り過ぎ、遠くなった。
二人はしばらく壁に背をつけたまま動かなかった。
頭上に、細い青空が見えた。
路地の向こうで、サンパウロはいつも通り動いていた。
「まいたと思います」
と三好は小声で言った。
ルイーザが三好を見た。
「よくわかりましたね」と言った。
「昨日の脅迫状を出した人間と同じかはわかりません。でも、渡辺さんに会う前に振り切っておきたかった」
ルイーザがこわばった顔でこちらを向いた。
「脅迫状って?」
「後で話します」
と三好は言った。
渡辺老人は前日より落ち着いて見えた。
金太郎の同じ席に座り、コップの水を一口飲んでから話し始めた。
三好は英語に変換しながら聞いた。
1946年11月。日本の敗戦から1年が経っていた。
戦争が終わったことを信じない者たちが、
ブラジルの日系人コミュニティに多くいた。
いわゆる「勝ち組」と呼ばれた人々だ。
彼らにとって、敗戦を受け入れた「負け組」は裏切り者だった。
臣道連盟と呼ばれる組織が各地で暴力事件を起こし、負け組への圧力を強めていた。
指導者を何人も殺していた。
高橋 実は、そのリストに名前があった。
「高橋さんはその夜、集会があると聞かされて呼び出された」
と渡辺は言った。
「私も行こうとした。でも高橋さんに止められた。『来るな』と言った。『お前には家族がいる』と」
三好が英語に直すと、ルイーザの表情が変わった。
「高橋さんだけが中に入った。それから——出てこなかった」
「出てこなかった、とはどういうことですか」
とルイーザが聞いた。
「They never let him out.(彼らは、高橋さんを外に出さなかった。)」
と三好は言った。
「田中 清はその後、こう広めた。『高橋は負け組のみんなを捨てて、自分だけ夜逃げした』と。仲間を裏切って逃げた男の話を、作り上げた。殺したことを隠すために」
ルイーザはしばらく黙っていた。
テーブルの上で組んだ手を、少し強く押さえていた。
「信じた人はいましたか」と三好は聞いた。
「信じた者はいない。高橋さんがそんなことをする人ではないと、みんな知っていた。だから田中 清が仕組んだとわかった。でも誰も声を上げなかった。怖かったから」
渡辺老人は言った。
「私も、怖かった」
老人はコップを両手で包んだ。
「これ以上は知らない。でも、あの夜のことは本当のことだ」
渡辺老人の手が震えていた。
90年以上を生きてきた手が、今日初めてあの夜のことを誰かに語った。
金太郎の蛍光灯が白く光っていた。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
「記事に書かせてもらえますか」
とルイーザが英語で聞いた。
三好が訳すと、老人は少し考えてから言った。
「書いてもいい。ただし名前は出さないでくれ」
リベルダーデを出たのは、夕方だった。
路地の入口で、三好は上着の内ポケットに手を入れた。
「昨夜、ホテルに帰ったら届いていた」
と言って、折りたたんだ紙を渡した。
ルイーザは読んだ。
少し間があった。
「やっぱり」と言って、紙をたたんで返した。
「ありがとう。教えてくれて」
Fasanoのバーで二人で座った。
低い照明、静かな音楽、革張りの椅子。
バーカウンターの奥で、バーテンダーが無言でグラスを磨いていた。
ルイーザが「ここでいいですか」と聞いた。
三好が泊まっているホテルのバーだった。
「はい」と三好は答えた。
カイピリーニャを頼んだ(R$68)。
ルイーザはトニックウォーターだけにした。
「渡辺さんの証言だけでは、証拠にならない」
とルイーザは言った。
「田中 清に関係する記録が残っていないか。当時の名簿、写真、証言者が他にいないか」
三好は田中 清がエドゥアルド・田中の祖父であることを、まだ言っていなかった。
今日の証言を聞きながら、それを確認しなければならないと思い始めていた。
でも今夜は、まだ言えなかった。
「一緒に調べます」と三好は言った。
ルイーザが三好を見た。
少し驚いた顔をした。
「なぜ」と聞いた。
「ここまで聞いてしまったら、途中でやめる方が気持ち悪い。困っている人を放っておけない性格なので」
と三好は言った。
ルイーザはしばらく三好を見ていた。
それから小さく息をついた。
「ありがとう」と言った。
声が、少しだけ柔らかくなった。
三好はグラスを傾けた。カイピリーニャの酸味が喉の奥で広がった。
バーを出ると、ホテルのロビーは静かだった。
「怖いですか」
と三好は聞いた。
「少し」
とルイーザは言った。「あなたは?」
「少し」と三好は答えた。
お互いにどこへ行くという言葉を出すことなく、
二人は並んでエレベーターに乗り、三好の部屋に向かった。
エレベーターの中で、二人は黙っていた。
ルイーザが三好を見た。
三好もルイーザを見た。
ドアが開いた。廊下を歩いた。
部屋の前でカードキーを取り出した。
ドアが開いた。
三好は先に入らなかった。
ルイーザが入った。
振り返った。
窓の外にサンパウロの夜景が広がっていた。
ルイーザが窓の前に立ち、ゆっくりとコートを脱いだ。
肩が出た。
首の線が白かった。
それだけのことだった。
でも三好の視線は動かなかった。
「全部、忘れていいですか」
とルイーザは言った。
声が低かった。
「今夜だけ」
三好はドアを閉めた。
近づいた。
ルイーザが三好を見上げた。
切れ長の目が、リベルダーデの夜とは違う色をしていた。
何かを追っている目ではなかった。
ただ、今夜だけここにいた。
ルイーザの手が三好の胸に触れた。
指が細かった。温度があった。
三好はその手をゆっくり包んだ。
顔が近かった。
ルイーザの息が三好の首にかかった。
黒い髪が頬に触れた。
唇が、触れた。
部屋の中が静かになった。
ルイーザが三好のジャケットに手をかけた。
三好はルイーザの髪を梳いた。
黒い髪が指の間を流れた。
窓の外のサンパウロが、二人の影を照らしていた。
ベッドのそばまで、いつの間にか来ていた。
灯りを消した。
サンパウロの夜景だけが、
その後も、窓の外で光り続けていた。
朝、空が白くなり始めたとき、目が覚めた。
ルイーザはいなかった。
枕の上に、紙が一枚置いてあった。
英語で一言だけ書いてあった。
"Thank you."
三好はしばらく、その紙を見た。
【次話予告】
翌朝、路地に出た三好の頭上から、突然、花鉢が落ちてきた。
誰かが、まだ動いている。ルイーザが「田中家に古い記録が残っているかもしれない。
エドゥアルド・田中に会えますか」と言った——三好には、まだ言っていないことがあった。

Baretto-Londra(Fasano São Paulo内、Rua Vittorio Fasano, 88, Jardins)
ファザーノ・ホテル内のバー。
1960年代ロンドンのクラブをモチーフにした空間で、低い照明と革張りの椅子が特徴。
カイピリーニャ(R$68〜)をはじめ、クラシックなカクテルを揃える。
ホテルの宿泊客だけでなく、地元の常連も夜ごと集まる場所だ。



![何度目の青空か? [最終話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_4541099675f94b9395b251b2980d8068~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_4541099675f94b9395b251b2980d8068~mv2.png)
![何度目の青空か? [第2話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_13399515ef0a475fb32e84fbe2ae3e2e~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_13399515ef0a475fb32e84fbe2ae3e2e~mv2.png)
![何度目の青空か? [第1話 / 全4話]](https://static.wixstatic.com/media/37d521_a1580ab2892f476fb74c9ebbed4e2a56~mv2.png/v1/fill/w_980,h_552,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/37d521_a1580ab2892f476fb74c9ebbed4e2a56~mv2.png)
コメント