top of page

何度目の青空か?  [最終話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
9月7日
読了時間: 6分



【最終話】 何度目の青空か?


翌朝、ホテルを出て路地を歩いていたとき、スマホの画面に目を落とした。

一歩分、歩みが遅れた。

直後、数歩前の石畳に花鉢が砕けた。


音が先だった。

陶器が石畳に叩きつけられる、鈍い音。


立ち止まって見た。

破片と土が靴先まで散っていた。

頭上を見上げた。

三階の手すりに、空の鉢台だけが残っていた。

人影はなかった。

歩みを緩めていなければ、頭上に落ちていた位置だった。


ゆっくりとしゃがんで、破片の一つを拾った。

素焼きの欠片。

風で落ちる角度ではなかった。

三好は破片を石畳に戻し、上着のホコリを払った。


命を狙われた、ということだ。

今日エドゥアルドに会いに行く理由が一つ増えた。

タクシーを拾った。



エドゥアルド・田中のオフィスは、イタイン・ビビ地区の高層ビルの上階にあった。

会議室に通され、まず条件の話を続けた。

サプライチェーンの詳細。

納期と仕様の確認。数字の精査。

エドゥアルドは終始、手慣れていた。

話が速く、論点が明確で、無駄な言葉がなかった。

ビジネスマンとして、いい相手だった。

それは最初から変わっていなかった。

一区切りついたところで、三好は言った。


「ところで、田中 清という方をご存知ですか」

エドゥアルドが止まった。

ほんの一瞬だった。

しかし三好には見えた。

「祖父の名前です」

と静かに言った。

「なぜ?」


三好は話した。

渡辺老人のこと。

1946年11月のこと。

高橋 実のこと。

脅迫状と尾行と、今朝の花鉢のことまで。

すべてを、順を追って話した。


エドゥアルドは途中から視線をテーブルに落とし、

最後まで口を挟まなかった。

「知っていましたか」

と三好は最後に聞いた。


「全部は知らなかった」

とエドゥアルドは言った。

しばらく間があった。

「でも、うちの人間が動いていることは感じていた」

エドゥアルドは三好を見た。

「あなたまで巻き込んでしまった。申し訳なかった」


田中家の中には、まだ古い感覚を持つ人間がいる、

とエドゥアルドは言った。

勝ち組の時代を生きた者たちの孫や曾孫が、

今も昔の体制を守ろうとしている。

表では時代に合わせた言葉を使う。

しかし、自分たちのコミュニティの歴史を外部にさらされることを、本能的に拒む。

脅迫状も尾行も、そういう人間が動いていた。


「田中陣営も、一枚岩ではない」

とエドゥアルドは言った。

「あなた自身は」

と三好は聞いた。

エドゥアルドはしばらく考えた。


「私は、日系人がともに手を取って生きていかなければならない時代だと思っている。いわゆる負け組も勝ち組も、今の私たちには関係ない。一緒に生きていく以外に、道はない」


「でも、止めなかった」

と三好は言った。

エドゥアルドはうなずいた。

視線を上げた。

「止めなかった。それは私の責任だ」


「一人、呼んでいいですか」

と三好は言った。

ルイーザが入ってきたとき、エドゥアルドは立ち上がった。

「高橋ルイーザさん」

と言った。

「あなたの祖父のことを、お詫びしなければなりません」

ルイーザは黙ってエドゥアルドを見た。


エドゥアルドはキャビネットから古いファイルを取り出した。

1940年代の日系コミュニティの名簿だった。

高橋 実の名前が、そこにあった。

「負け組」の欄に、丁寧な筆跡で記されていた。


「うちに残っていた資料です。使えるかどうかわからない。でも、あなたが持っているべきものだと思った」


ルイーザはファイルを受け取った。

ページをゆっくりめくった。

三好には、彼女の横顔しか見えなかった。

しばらくして、顔を上げた。


「記事にする許可をいただけますか」

「それを言うために呼んでもらった」

とエドゥアルドは言った。

「書いてください。できれば——正確に。ただ、今回の脅しめいたことについては、私に一任してくれませんか」

ルイーザは「ありがとうございます」とだけ言った。

それ以上の言葉を、今は持っていなかった。



エドゥアルドのオフィスを出たのは、昼過ぎだった。

ルイーザはファイルを胸に抱えていた。

エレベーターの中で、二人は黙っていた。

一階のロビーに出ると、光が強かった。


外に出ると、青空が広がっていた。

サンパウロの空は、今日も遠慮なく青かった。


「祖父は格好よかったな」

とルイーザは空を見上げながら言った。

声が柔らかかった。

「来るな、お前には家族がいる——そういうことが言える人だったんだ」

三好は何も言わなかった。


「ありがとう」とルイーザは言った。

三好を見た。

「本当に。あなたが一緒にいてくれなければ、こうはならなかった」

「記事、読みます」と三好は言った。

ルイーザは少し笑った。

それから少し間があった。


「またサンパウロに来ますか」

「商談自体はうまくいったので、また来ると思います」

「そのとき——」ルイーザは言いかけて、止まった。

青空を一度見上げ、また三好を見た。

「もっといい記者になってから、また連絡します」

三好は何も聞かなかった。

それだけで、意味は伝わった。


ルイーザは振り返らずに歩き出した。

ファイルを抱えたまま、人混みの中に消えていった。

誰も切り込めなかったところへ踏み込んでいく人間がいる。

次にサンパウロへ来るとき、彼女はおそらく、今よりずっといい記者になっているだろう。

三好はその背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。

気が付いたら、また青空を見上げていた。



翌日の便でサンパウロを発った。

エドゥアルドとの商談は、前に進めることにした。

今回のことがあっても——

いや、あったからこそ、この男は信用できると思った。

「日系人がともに生きていかなければならない時代」

と言ったとき、嘘のない顔をしていた。

今後、古い体制の人間たちがどう動くかは、まだわからない。

それでも、嘘のない顔をする人間を、三好はそう多くは知らなかった。


離陸してしばらくすると、雲の切れ間からサンパウロが見えた。

コンクリートの塊が、地平線まで広がっていた。

その上に、青空が広がっていた。


何度目の青空か。


初日のタクシーで見た空。

ジャカランダの向こうに残っていた空。

翌朝、目が覚めるたびに窓の外にあった空。

路地で尾行をまいた後、頭上に見えた細い空。

エドゥアルドのビルを出て、ルイーザと並んで見上げた空。

ルイーザの背中が消えた後、気が付いたら見上げていた空。


次にこの街に来るとき、三好はまたこの空を見上げるだろう。


——何度目の青空か、と。


<完>



イタイン・ビビ(Itaim Bibi)(São Paulo)

サンパウロ有数のビジネス・高級住宅地区。洗練されたオフィスビル、高級レストラン、ブティックが集中し、ヴィラ・オリンピアと並んで外資系企業の拠点が多い。ジャルジンス地区から車で10分ほど。サンパウロの「現在」が最も濃縮されている街だ。

グルーリョス国際空港(Aeroporto Internacional de Guarulhos)(Guarulhos, São Paulo)

サンパウロ中心部から北東へ約25km。渋滞を考慮すると市内から1時間半〜2時間かかることもある。ブラジル最大の国際空港で、日本への直行便(LATAM、JAL等)が発着する。サンパウロ最後の空気を吸える場所。



コメント


bottom of page