今、話したい誰かがいる [第2話]

更新日:9月28日

【第2話】 名前を知っている
朝7時、Galle Face Hotelのロビーに三好はいた。
ニティヤが昨夜言った言葉が、眠れない時間中ずっと引っかかっていた。
「その会社、以前にもコロンボに来ていませんか。たとえば、20年くらい前に」。
引き継ぎ書には取引先の情報しか書いていなかったが、
社内のデータベースには担当者の記録も残っているはずだ。
ノートパソコンを開き、社内データベースにログインした。
コロンボ担当の出張記録を新しい順に遡った。
ニティヤが昨夜「20年くらい前」と言っていた。
2004年から2006年あたりを開いた。
その時期のコロンボ出張記録は、一人だけだった。
吉田健一。
2004年11月〜12月、コロンボ出張。
備考:現地にて消息不明。2005年5月、行方不明として処理。
以降、しばらく担当者の記録に空白があった。
三好は画面を閉じた。
そのままニティヤにメッセージを送った。
「もう少し話を聞かせてもらえないか」
インド洋の朝は早い。
ロビーの木製ファンが回り続けていた。
返信は昼前に届いた。
「Gallery Café、知っていますか」。
知らなかった。
地図で調べると、歩いて15分ほどだった。
Paradise Road The Gallery Caféは、コロンボ3区の住宅街の一角にあった。
鉄門を押すと、植物に覆われた中庭が現れた。
スリランカを代表する建築家、ジェフリー・バワの旧事務所を改装したカフェだ。
バワ自身が死の直前に改装を承認したと言われている。
石張りの床に、古い木製家具。
壁は白く、光は柔らかかった。
熱帯の植物が部屋の隅々まで入り込んでいた。
コロンボにいることを忘れるような空間だった。
ニティヤはすでに奥のテーブルにいた。
カメラバッグを椅子に立てかけ、コーヒーを飲んでいた。
「この場所が好きなんですか」と三好は言いながら座った。
「仕事の合間に来ます。ここにいると、少し落ち着く」
スリランカカレーのセットとゴトゥコラのサラダを頼んだ。
ゴトゥコラはツボクサという葉を使ったサラダで、ライムと塩だけで和えてある。
シンプルだが、青みのある独特の香りがあった。
カレーは辛い。
それでもスパイスの層が深く、食べながら体が内側から落ち着いていく感じがした。
食べながら、ニティヤが話し始めた。
「昨日、なぜこの仕事をしているのかと聞きましたよね」
とニティヤは言った。
「答えを、少し言ってもいいですか」
三好は黙ってうなずいた。
「本当の理由は、父を探しているからです」
タミル系の看護師だった母と、日本人の男が出会ったのは2003年だとニティヤは言った。
コロンボでの出張中に何度か会い、ニティヤが生まれた。2004年のことだ。
「父は子供が生まれたことを知っていたと、母は言っていました。でも、その年の終わりにコロンボを去って、それから連絡がなかった」
「去ったのはいつ頃ですか」
「2004年の終わりです。その直後にスリランカに大きな津波が来たから、母はずっと、津波で何かあったのかと思っていた。でも父は津波の後にコロンボに来たはずだった。だから、津波じゃない」
三好は手の中のカップを持ったまま、動かなかった。
2004年11月〜12月。
吉田健一のコロンボ出張記録と、日付が重なっていた。
「失踪した人々の家族を、写真で記録しています」
とニティヤは言った。
「個人的な理由だけでなく、同じ境遇の家族が大勢いる。内戦で夫を失った女性、行方不明の兵士を待つ母親。失踪者は、タミル系だけじゃない」
ニティヤはカメラバッグからタブレットを取り出して、何枚か写真を見せた。
内戦で夫を失った女性の顔、子供の帰りを待ち続ける老母の目。
声のない時間が、写真に詰まっていた。
三好は一枚一枚を見ていった。
ある一枚で目が止まった。
人ごみを撮った写真で、端に後ろを向いた中年の男が写っていた。
「この人は」と三好は言った。
「わからない」とニティヤは言った。
「取材中だったので津波の被害者であることは確かですが、特に話をした記憶はないので、偶然他の方と一緒に写り込んでいたと思います。大勢いるのでよくあることです」
三好はタブレットをニティヤに返した。
ニティヤは静かにカップを置いた。
感情を出さないようにしているのがわかった。
夜、Eskobarに移った。
コロンボ2区、湖沿いのビルの屋上にある隠れ家的なバーだ。
エレベーターで上がり、重い扉を押すと、暗い照明と生演奏のジャズが出迎えた。
スリランカ産のアラック——ヤシの花蜜を発酵させた蒸留酒——をベースにしたカクテルが並ぶ。
三好はパッションフルーツのアラックサワーを頼んだ。
「父の苗字はわかっているんですか」
と三好は聞いた。
ジャズのベースが、腹に届くほど低く響いていた。
「知っています」
とニティヤは言った。
しばらく間があった。
「吉田、という苗字です。下の名前は、わからない」
三好はグラスをカウンターに戻した。
「会社の出張記録に、その苗字がある」
と三好は言った。
「吉田健一という名前で」
ニティヤは動かなかった。
「健一…」と、ゆっくり繰り返した。
「どうして、その人の名前を知っているんですか」
今朝のデータベースの記録が、頭にあった。
吉田健一の名前と、2004年という年と、「行方不明として処理」という備考。
目の前にいるニティヤが、その吉田健一の娘だとしたら。
偶然で片付けるには、一致しすぎていた。
それを今、言うべきか。
ジャズのトランペットが長いフレーズを吹いた。
薄暗い中で、ニティヤの目が三好を見ていた。
答えを待っている目だった。
「会社の記録に、その名前がある」
と三好は言った。
「今朝、確認した。宿泊先も、Galle Face Hotelだった」
ニティヤはしばらく動かなかった。
グラスを持ったまま、三好を見ていた。
「記録に?」
「コロンボ担当の出張記録です。2004年の分に」
ジャズが続いていた。
ニティヤが次の言葉を出すまでの間が、長かった。
ニティヤは何も言わなかった。
三好も、その先を続けなかった。
その夜、二人はそれ以上話さなかった。
【次話予告】
翌朝、三好はニティヤに電話をかけた。
昨夜言えなかったことを、どこから話せばいいかわからなかった。

Paradise Road The Gallery Café 2 Alfred House Road, Colombo 00300
ランチ LKR 1,500〜(約USD5〜14) スリランカが誇る建築家ジェフリー・バワの旧事務所を改装したカフェ。
植物に覆われた中庭を抜けると、石張りの床に古い木製家具が並ぶ静かな空間がある。
コロンボの喧騒から切り離されたような場所で、考えも少しだけ整理できる気がする。

Eskobar Colombo 101/11, Hunupitiya Lake Road, Colombo 00200
カクテル USD8〜17 湖沿いのビル屋上にある隠れ家的なバー。
重い扉を押すと薄暗い照明と生演奏のジャズが迎える。
スリランカ産アラックをベースにしたカクテルと南米風タパスが揃う。この街の、もう一つの顔がここにある。



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