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今、話したい誰かがいる  [最終話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
9月21日
読了時間: 5分



【最終話】 今、話したい誰かがいる


翌朝、目が覚めるとニティヤは窓の前にいた。

カメラを持っていた。


「昨夜、撮っておきたかったので」

と彼女は言った。

朝靄の中に、インド洋が広がっていた。

光はまだ柔らかく、水面が白く光っていた。


「飛行機は何時ですか」

「午後3時です」

「なら、まだ時間がある」


三好はニティヤが撮った方向を見た。

昨夜と同じ海が、そこにあった。

今日でコロンボを出る。

この窓も、この光も、今日で終わりだった。

帰れば次の案件が待っている。

それでもコロンボのことは、しばらく頭から離れない気がした。



午前10時、Wijesekara & Sons Commoditiesへ向かった。

フォート地区のビルの4階。

エレベーターを降りると、

古い木製の受付カウンターと、壁に貼られた農園の地図が目に入った。

スリランカ南部の農園が点在した地図で、

手書きの文字がいくつも書き込まれていた。


長い取引の積み重ねが、その紙に滲んでいた。

受付に来意を告げると、しばらくして年配の男が現れた。

七十近い、薄いグレーのシャツを着た男だった。

長くこの会社にいる人間の顔をしていた。


「吉田健一さんのことで、少し話を聞かせていただけますか」

と三好は言った。

「20年以上前、弊社がコロンボに来ていた時の担当者です」

男は少し考えてから言った。

「吉田さん。ああ、知っていますよ。先日も、道でばったり会って挨拶しました」

ニティヤの目が三好を見た。

「最近も、コロンボにいるんですか」

「ええ。たまに見かけるのでコロンボにいるのかなと思います」


ニティヤがスマートフォンを取り出した。

去年の食堂で撮った記念写真を開いた。

「この写真の中に、吉田さんはいますか」

男は画面に顔を近づけた。

しばらくして、一点を指さした。


「この方です」


以前三好が気になっていた男性だった。

逆光で顔がやや不明瞭な、六十代の男。

カメラをやや避けるように写っていた。


「今、どこにお住まいかわかりますか」

「そこまでは……ちょっと」



Wijesekara & Sonsを出て、フォート地区の通りに出た。

三好は黙って歩いた。

香辛料と排気の匂いが混じっていた。

何かが頭に引っかかっていた。

従業員が指さした写真の中の人物。

逆光で不明瞭な輪郭。

どこかで、この顔を見たことがある気がした。


どこで…?


「どうしたんですか」

とニティヤは言った。

「……カメラを見せてもらえますか」


ニティヤがカメラを渡した。

三好は去年の食堂の写真を開いた。

逆光の六十代。

その輪郭を見た瞬間、何かがつながった。


「この人、見覚えがある気がする」

と三好は言った。

「Gallery Caféで見せてもらった写真。プロジェクトの中の一枚で、人ごみの端に後ろを向いた男が写っていた。あの人と同じじゃないですか」


ニティヤが目を細めた。

カメラを受け取り、スクロールした。

「……ホントだ」


そのまま手が止まらなくなった。

過去の写真を遡るたびに、人ごみの端に、顔を背けた同じ輪郭が出てきた。

一枚、また一枚。

写真の中の男は、いつも端にいた。


「ずっと近くにいたんですね」

とニティヤは言った。

声が変わっていた。

「気づかなかった」


ニティヤはカメラから目を離さなかった。

指先が小さく震えていた。

三好にはそれが見えた。

気づかなかった22年分が、画面の中に積み重なっていた。

何も言わなかった。

ただ、そばにいた。


三好はふと顔を上げて、通りを見た。

コロンボの昼の通りは賑やかだった。

商人の声、バジャジのエンジン音、石畳の上を歩く人々の足音。

フォート地区の昼の通りに、人が流れていた。


その中に——麻のシャツを着た六十代の男が立っていた。

Wijesekara & Sonsのビルを、静かに見上げていた。


三好は動かなかった。

胸の中で何かが音を立てた。

男がゆっくりとこちらに目を向けた。

目が合った。

一秒か、十秒か。


男は口元に指を当てた。

静かに、という合図だった。

それから小さく、首を横に振った。


三好は軽く頷いた。

男が深く頭を下げた。

それから人ごみに混じって、消えた。

三好はしばらく、その方向を見ていた。


ニティヤが顔を上げた。

三好が写真を見ずに通りを眺めていることに気づいたのだろう。

「どうしたんですか」

「いや」

と三好は言った。


「今も近くにいるのかなと思ってキョロキョロしてみたんですが、さすがにいませんでした」


ニティヤはしばらくカメラを胸に抱えていた。

それからゆっくりと、通りの向こうを見た。


「私も普段から、意識して周りを見るようにします」


三好は何も言わなかった。

しばらく間があった。


「今、話したい誰かがいるから」


ニティヤはそのまま通りを見ていた。

コロンボの昼の光が、彼女の黒髪を白く飛ばしていた。

三好はその言葉を聞いた。

ニティヤが誰に話したいのかは、聞かなかった。


三好も、同じ方向を見た。

コロンボの昼の光は強く、通りの輪郭を白く滲ませていた。

男はいなくなった。

でも、どこかから見ているだろうと三好は思った。

これからも、ずっと遠い場所から、ニティヤが歩く方向を。


三好には、それで十分な気がした。


<完>



Wijesekara & Sons Commodities Fort District, Colombo 00100

1960年代創業の天然ゴム商社。コロンボ最古の商業地区フォートのビルに今も構える。日本との取引は20年以上続いており、スリランカの農園から原料を集めて輸出するスタイルを変えていない。この街が何度変わっても、ここだけはそのままだ。




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