今、話したい誰かがいる [第1話 / 全4話]

更新日:9月28日

【第1話】 弾痕の街で
コロンボに来るのは初めてだった。
成田を出て約10時間。
乗り継ぎのシンガポールで2時間待ち、バンダラナイケ国際空港に降り立ったのは現地時間の夕方だった。
蒸し暑さが体に纏わりついた。
東南アジアとは少し違う。
何か古いものが空気に混じっているような感触がした。
チェックインしたのはGalle Face Hotel。
1864年創業、コロンボ最古のホテルだ。
白いコロニアル建築がインド洋に面して立っていた。
ロビーは高い天井に木製ファンが回り、床はテラゾー張り。
スーツケースを引いて中に入ると、時代が少しだけ止まったような空気があった。
窓の外にインド洋が広がっていた。
水平線まで、何もなかった。
翌朝、商談に向かった。
取引先はフォート地区にある天然ゴム商社、Wijesekara & Sons Commodities。
創業60年の老舗で、スリランカ南部の農園から原料を集めて日本向けに輸出している。
三好の会社とは20年以上の取引がある、と引き継ぎ書にあった。
数量と価格は概ね合意に近い。
細部の詰めは次回でいい。
商談は午後2時に終わった。
ビルを出て、フォート地区の通りを歩いた。
英国統治時代の石造りの建物が細い通りに圧力をかけていた。
そのひとつの外壁に、丸い穴がいくつも開いているのが目に入った。
大きさがばらばらで、規則性がない。
爆撃の跡ではない。
もっと小さい、銃弾の跡だ。
カメラのシャッター音がした。
建物の向かいに、若い女が立っていた。
大きな一眼レフを構えて、その弾痕を撮っていた。
褐色の肌に、腰まで届く黒髪。
目が細く、どこか静かな諦めを持っているような顔だった。
細い体にカメラが大きく見えた。
ファインダーを覗いたまま動かなかった。
三好が近づいても気づかなかった。
「Excuse me」
と三好は英語で声をかけた。
女がカメラを下ろして振り返った。
顔を見て、三好は少し迷ってから日本語で続けた。
「もしかして、日本の方ですか」
女は少し目を細めた。
「半分だけです」
と日本語で答えた。
「父が日本人です」
日本語は流暢ではなかったが、確かに通じた。
「戦争の傷跡です」
と彼女は言った。
「誰も気にしなくなってきている」
三好は壁に近づいた。
弾穴は塗り固められることなく、そのまま残っていた。
「内戦があったんですか、ここで」
「1983年から2009年まで。26年間」
彼女は続けた。
「シンハラ人の政府と、タミル人の武装組織が戦い続けた。北部と東部が主な戦場でしたが、ここコロンボでも爆弾テロが何度も起きた。私の母はタミル系です」
三好には知識がなかった。
スリランカがそれほど長い内戦を経ていたことも、その傷跡がまだ街の壁に残っていることも。
2009年に終わったということは、17年しか経っていない。
「今も撮り続けているんですか、そういう場所を」
「仕事です。失踪した人々の家族を撮るプロジェクトをやっています。それと、個人的な理由もある」
それ以上は言わなかった。
カメラを再び構えた。
三好は立ち去らなかった。
彼女の名前はニティヤ(Nithya)といった。
22歳、フォトジャーナリスト。
内戦後の記録プロジェクトを続けながら、雑誌や広告の仕事もしているという。
タミル系の母と、一度も会ったことのない日本人の父の間に生まれた。
コロンボ育ち。
英語はなめらかで、日本語も少し分かると言った。
「もう少し聞かせてもらえませんか」
と三好は言った。
「食事でも、どうですか」
ニティヤはカメラをバッグに入れながら言った。
「Ministry of Crab、行ったことはありますか」
Ministry of Crabは、Old Dutch Hospitalという建物の中にある。
オランダ統治時代に建てられた病院が、今はレストランとして使われている。
石造りのアーチが連なる吹き抜けの空間に、白いテーブルが並んでいた。
インド洋から吹き込む夜風が、蟹の香りを運んでいた。
蟹料理の専門店だ。
アジアのベストレストラン50に選ばれた名店で、メニューは蟹の一択に近い。
三好はジャンボクラブのバターガーリックを頼んだ。1.5kg、USD230。
コロンボとしては高い。
それでもこの空間と皿にはふさわしかった。
運ばれてきたときの存在感は、想像より上だった。
甲羅が皿の上で光っていた。
バターとガーリックの香りが鼻をついた。
木槌で殻を割ると、白い身がほぐれた。
口に入れた瞬間、濃い海の味が広がり、バターのコクがそれを閉じ込めた。
「コロンボで蟹」という先入観を、最初の一口で消した。
ニティヤは取材の話をした。
内戦で夫を失った女性の話、身元不明のまま処理された遺骨の話。
声に感情はなかった。
仕事として話しているように聞こえた。
三好は黙って聞いた。
「なぜそういう仕事を」
ニティヤはフォークを置いた。
「個人的な理由がある、と言いました」
そこで止まった。
三好は追わなかった。
石のアーチの向こうに、コロンボの夜が広がっていた。
食事が終わりかけた頃、ニティヤが聞いた。
「どちらの会社から来ましたか」
三好が答えた。
ニティヤは少し間を置いてから言った。
「その会社、以前にもコロンボに来ていませんか。たとえば、20年くらい前に」
三好は箸を止めた。
今日商談したWijesekara & Sonsとは、20年以上の取引がある。
「なぜそれを」
ニティヤは黙って、ただ三好を見ていた。
【次話予告】
翌朝、三好はGalle Face Hotelのロビーで会社のデータベースを開いた。
「吉田」という名前が、20年前のコロンボの出張記録の中にあった。

Galle Face Hotel 2 Kollupitiya Road, Colombo 00300 / USD88〜468
1864年創業、コロンボ最古のホテル。白いコロニアル建築がインド洋に面して立ち、ロビーに入った瞬間から時代が変わる。植民地時代の木製ファンと磨かれたテラゾーの床。この街に何が起きても、ここだけは変わらなかったように見える。

Ministry of Crab Old Dutch Hospital, 4 Hospital Street, Fort, Colombo 00100 / ジャンボクラブ USD170〜380(重量により変動)
アジアのベストレストラン50・第35位。オランダ統治時代の病院建物をそのまま使ったレストランで、石造りのアーチの下で蟹を食べる。殻を割る音と蟹の香りが混じり合うこの空間を、他の場所では再現できない。



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