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三番目の風  [第3話]

執筆者の写真: GENPASS 編集 三好
GENPASS 編集 三好
9月27日
読了時間: 10分

更新日:9月28日




【第3話】 喉を焼く


彼女の言ったとおりになった。

朝、窓を開けた瞬間に音でわかった。

建物の角を削るような、低くて途切れない風の音だ。

カーテンが水平に持ち上がって、部屋の中の紙が一斉に床へ落ちた。


海峡は灰緑色で、白波が端から端まで立っている。

昨日まで数分おきに行き来していたフェリーが、一隻も見えなかった。



7時半に、桟橋まで歩いた。

柵が下りている。

渡し板に鎖が巻かれて、掲示板にトルコ語と英語で欠航が出ていた。

売店のプラスチックの椅子が倒れたまま、誰も直していない。

防水布が一定の間隔で鳴っている。


海の色より先に、空の色が異様だった。

低くて、黄色い。

砂を含んだ風がアフリカから上がってくると、この街の空はこうなるらしい。


船が止まれば、荷物も止まる。

今日は何も進まない。


今夜の約束だけが、昨日のまま残っている。

ホテルに戻ってメールを開いた。


一昨日、東京に投げた質問の返事が来ていた。

荷受人の履歴を全部出してほしい、と書いた件だ。

返信は一行だった。


 触るな


三文字。

名前も、挨拶も、理由もない。

三好はその三文字をしばらく見ていた。


知らないから出せない、ではない。

出せるが出さない、でもない。

触るな、というのは、もうこちらは知っていて、

知っていることを知られたくないときの言い方だ。

あるいは、知りたくない。


たぶん後者だ、と三好は思った。

会社というのは、知ってしまうと動かなければならなくなる生き物だ。

誰かが調べ始めると、その誰かを止める。

体温のようなものだ。



9時過ぎに、デニズから連絡が来た。

「工場も止まりました。今日は誰も来ません」

そのあと、少し間があって、もう一通。

「夜まで待てないので、行っていいですか」


三好は画面を二度読んだ。

昨日の別れ際に、明日の夜と決めた。

それを彼女は昼に前倒ししてきた。

船が止まって時間が空いたから、というのが表向きの理由だ。

理由は大事ではない。

前倒しにしたという事実だけが大事だった。


「待ってる」とだけ返した。

11時に、彼女はロビーに現れた。

髪を下ろしていた。

昨日と同じ濃い緑のニット。

コートに砂が付いていて、肩のところが少し白い。


「外、ひどいです」

そう言って、金庫のバーを見た。

開いたままの鉄の扉と、それを抱いたガラスのカウンター。


「ここに泊まってるんですね」

「銀行に泊まってる」

「この街の男の人は、みんな銀行が好きです」

彼女がそう言って笑った。


結局、その日、二人は一度も建物の外に出なかった。

出られなかった、と言ったほうが正確だ。

海が閉じて、街が止まって、行けるところが縦にしかない。

地下と、屋上と、五階。

それで一日が足りた。


昼は地下に降りた。

もともと金庫室だった部屋だ。

壁は石のままで、入ると外の風の音が完全に消える。

温度が低い。

金を仕舞うために作った部屋は、そのまま酒を寝かせるのに向いていた。


この国のワインは、日本ではほとんど売っていない。

世界最古級のぶどう産地なのに、

長く酒に厳しい国だったせいで、外に出ていかなかった。

出してもらったのは二本とも土着の品種だった。


一本目がオキュズギョズ。

牛の目、という意味だと彼女が言った。

実が大きくて丸いからそう呼ぶらしい。

軽い。酸が立っていて、赤い実の匂いがする。


二本目がボアズケレ。

「これは、喉を焼く、という意味です」

名前の通りだった。

渋みが最初に来て、そのあと喉の奥が少し熱くなる。

一本目の軽さの後だと、ほとんど別の飲み物だ。

普段はブレンドして出すらしい。

別々に飲むと、その理由がよくわかる。

片方だけでは長すぎるか、短すぎる。


グラス二杯で、二人分でも一万円に届かない。

昨日の店の三分の一以下だった。


石の部屋は、人に余計なことを喋らせる。

デニズは祖母の話をした。

黒海側の出身で、秋になると魚を塩に埋めていた。

子どもの頃、その匂いが家中に染みているのが恥ずかしかった。

いまは、あの匂いのする家に住みたいと思っている。


両親は彼女が高校生のときに別れた。

アンカラの四年は奨学金だった。

日本語を選んだのは、たまたま席が空いていたからで、

思想も憧れもなかったという。


名古屋の二年は寮にいて、日本語しか喋らなかった。

友達はできなかった。

「なぜ帰ったんですか」

「母が倒れたので」

それだけだった。

理由を大きくしない人だ、と三好は思った。


「三好さんは」

「何を」

「なぜ一人で来て、一人であんな店を予約するんですか」

三好は少し黙った。


言わなくてもいい話だった。

ただ、この部屋は外の音がしなくて、

グラスの底が石に当たる音しかしない。


「昔、二人で行くつもりで押さえた店に、一人で行ったことがある」

「そうですか」

「それ以来、先に押さえることにしてる。行けたら、誰かと行く」

デニズはそれを聞いて、すぐには何も言わなかった。

グラスを両手で持って、少し回した。


「今日は、行けましたね」

三好は自分が、久しぶりに人前で負けたのがわかった。



16時に屋上へ上がった。

外の席は全部畳んである。

ガラスの内側に寄せた椅子に座った。

灯りを落とした室内で、外の白波だけが動いている。


ラクを二杯頼んだ。

水を足すと白く濁る。

「昨日、なぜ何も聞かなかったんですか」

デニズが唐突にそう言った。

三好はグラスを置いた。


「何を」

「わかりません。でも、聞きたそうな顔をしていました。二回」

数えていたのか、と思った。

この女は数えるのが仕事だ。


「聞いたら、どうなる」

「答えます。私は、答えられないことを知らないので」

その一行が、この日でいちばん怖い言葉だった。


知らないから答えられる。

答えたら、彼女が署名した紙の枚数が全部こちらに渡る。

渡ったあと、この女をどうやって元の場所に戻せばいいのか、

三好にはわからなかった。


「今日は聞かない」

「はい」

彼女はそれ以上訊かなかった。

グラスを置いて、少しだけこちらに体を傾けた。

それだけだった。


それだけで足りる夕方というのが、たまにある。

部屋は五階だった。

扉を閉めた瞬間に、風の音が遠くなった。


外はまだ明るかった。

砂で濁った光が、カーテンの隙間から床に一本だけ入っている。


コートを脱がせるとき、彼女の首の後ろに細い金のチェーンがあるのに初めて気づいた。

昼間は襟に隠れていた。

留め具が前に回っていて、三好はそれを指で後ろへ戻した。

彼女が少し笑った。


168センチ。52か53キロ。

立たせると三好の目の高さが唇のあたりに来る。

ニットの下は思ったより薄かった。

肩の骨が出ていて、そこから下に向かってだけ、やわらかい。

腰の細さに対して、胸も尻も量がある。

三十代半ばの体は、二十代の均一な柔らかさとは違う。

場所によって硬さが違って、その差が手に残る。


背中に一つだけ、肩甲骨の下にほくろがあった。

灯りは消さなかった。

彼女が消さないでと言ったわけではない。

ただ、消す手がどちらからも伸びなかった。


書類を触る手だ、と三好は思った。

その手が、いまは三好の腕を掴んでいる。

爪が短いので痛くない。

力の入れ方だけが昼間と同じだった。

丁寧で、紙の端を潰さない。


声は低かった。

日本語ではなかった。

トルコ語でもない、たぶん言葉ですらない音が、耳のすぐ横で何度か鳴った。


途中で一度、彼女が三好の顔を見た。

見て、何か言いかけて、やめた。

その「やめた」が、自分と同じ形をしているのが、嫌だった。

気づいたら22時を回っていた。


外はまだ鳴っている。

彼女は肩から上だけ出して、あとは全部シーツの中で眠っていた。

息が浅い。

三好は眠らなかった。


天井を見ながら、今日一日のことを順番に思い出していた。

祖母の魚の匂い。奨学金。倒れた母。

二人で行くはずだった店の話をしたこと。

それから、まだ言っていないことを思い出した。

明日になれば、この女は工場に戻って、また紙を書く。

その紙の隅には、いま自分の腕の中で寝ている人間の名前が入る。


知っていて、言わずに、抱いた。

三好はこれまで何度か自分を嫌いになったことがある。

だいたいは、動けなかったときだ。

今回は、動かないと決めたときだった。


1時を回ったころ、彼女が目を覚ました。

起きたというより、暗いところで目を開けただけの動き方だった。


「寝てないんですか」

「寝てない」

彼女は起き上がって、シーツを胸のところで押さえたまま、ベッドの縁に座った。

窓の外を一度見て、それからこちらを向いた。


「言ってください」

「何を」

「昨日から、二回言いかけました。今日も一回」


三回。数えられていた。


三好は起き上がって、灯りを一つだけ点けた。

それから、覚えていることを全部そのまま並べた。

一昨日の昼、あなたの会社のイスタンブール事務所に行った。


四階に扉が一つあって、その横に真鍮の表札が縦に七枚並んでいた。

あなたの会社の名前は、上から五番目にあった。

緑がかって曇っていた。


その二つ上、上から三番目に、一枚だけ新しい表札があった。

角が立っていて、ネジの頭にも傷がない。

最近そこに入った会社だ。


扉の下には、ポストが七つ並んでいた。

六つは封筒で膨れていた。

空だったのは一つだけで、それが三番目の会社のものだ。

郵便が一通も来ていない。

その三番目の会社の名前が、うちの船積みの書類の、荷受人の欄に入っている。


あなたが言った二通目の書類が始まったのは先月で、

その荷受人が足されたのも先月だ。

日本側に写しを送らなくていい、というのも同じ月に始まっている。


一通目でどこかに着いたことにして、二通目で別のどこかへ行っている。

たぶん、荷物は最初から、書類の上でしか動いていない。


東京に照会を出した。

返ってきたのは三文字だった。

触るな、と書いてあった。


喉が焼けた。

昼のボアズケレとは関係がなかった。



デニズは最後まで黙って聞いていた。

遮らなかった。

聞き返しもしなかった。

一度だけ、シーツを押さえている手を少し握り直した。


聞き終わって、彼女は自分の両手を見た。

手のひらを上に向けて、それから裏返して、爪を見た。

この街の金の通り道に、いちばん多く触っている手だった。


「何枚ですか」

「え」

「私が書いたのは、何枚ですか」


三好には答えられなかった。

数えられるのは、この世でこの女ひとりだった。



【次話予告】

朝になっても、彼女は数えるのをやめなかった。

枚数を数えるのではない。何を書いたかを、一枚ずつ思い出している。

「三好さん、私、たぶん全部持っています」

風が止んで、船が動き出した日の話だ。




The Bank Hotel İstanbul のワインセラーと屋上バー

ロビーの金庫バーとは別に、この元銀行には旧金庫室をそのまま使ったワインセラーがある。石壁、厚い鉄扉、低い温度。中に入ると外の音がまったく聞こえなくなる。テイスティングができるので、宿泊しているなら頼んでみる価値がある。屋上には別にバーがあり、風のない日はそこからボスポラスが一望できる。

海が荒れて船が止まる日は、この街では何もできなくなる。そういう日にホテルの中だけで一日が完結する、というのは、建物がいい宿を選んだときだけの贅沢だ。

トルコワイン(オキュズギョズ/ボアズケレ)

トルコは世界最古級のぶどう産地でありながら、長く酒に厳しい国だったため、日本ではほとんど流通していない。

土着品種でまず飲むべきはこの二つ。オキュズギョズは「牛の目」の意味で、実が大きく丸いことから。軽やかで酸があり、赤い果実の香り。ボアズケレは「喉を焼く」の意味そのままで、渋みが先に来て、喉の奥が熱くなる。現地ではこの二種をブレンドして出すことが多いが、別々に飲むとブレンドされる理由がよくわかる。グラスで頼めば二人でも一万円に届かない。



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